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内山書店と中国〜変わらぬ絆と新時代の交流物語(前編)

CRIPublished: 2024-10-03 21:06:57
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「かきっつぁん」――完造は、彼の弟であり、籬さんの父である嘉吉をこう呼んでいました。

内山兄弟は岡山県後月郡芳井村(現・井原市)の生まれ。完造は7人きょうだいの長男で、嘉吉は末っ子。二人の間には15歳の年齢差がありました。籬さんによると、完造は12歳で大阪へでっち奉公に出たのに対し、嘉吉は、4歳になる前に香川県丸亀市の叔父の家に養子に出されたため、兄弟の初対面は1927年の上海だったそうです。

「嘉吉は美術や演劇が好きで、中学卒業後、美術学校に進学したかったそうなのですが、家の経済事情もあり、(その希望は)果たさずにそのまま就職しました。その後、先輩に呼ばれて東京に行き、成城学園小学部で美術教師として、子どもたちにデッサンや彫刻、木版画を教えていました。1927年の夏休みに、完造から『上海に遊びに来ないか』という手紙をもらって、初めて船に乗って上海に行きました。お互いに顔を知らないので、嘉吉が赤いハンカチを船上から振ることで分かるというような話だったんです」

赤いハンカチを目印に、兄との対面ができたエピソードは、籬さんが子どもの時に父からよく聞かされた思い出話だそうです。嘉吉の上海訪問は、1927年夏、1928年夏と続きました。毎回、一度の訪中で1ヶ月ぐらい滞在していました。完造を通して、魯迅とも親しい交流がありました。3回目となる1931年8月の上海訪問の時に、中日の美術交流史に残る出来事がありました。

1931年8月22日、上海で開かれた第一回木刻講習会後の記念撮影。一列目の右から3人目が魯迅、その右が内山嘉吉

1931年8月6日、上海内山書店内で嘉吉が完造夫妻と雑談していた時、日本からの郵便が届いて、その中に嘉吉宛ての「暑中見舞いハガキ」が3枚ありました。それは成城の五年生が版画で刷った暑中見舞いでした。嘉吉は夏休みに入る前に、授業で学んだ版画を使って、暑中見舞いを送るようにと宿題を出していたのです。それを見た完造と美喜が興味を持ち、どのように作るのかを尋ねたところ、嘉吉は版画の道具一式を上海に持ってきていたので、その場で実演してみることになりました。内山書店の奥で嘉吉が版画の実演をしている時に魯迅が来店し、興味を持って嘉吉のすぐ横で真剣に実演を見ていたそうです。

そのころ、版画を使った大衆啓蒙活動を模索していた魯迅は、中国の民間で古くから伝承されてきた版画が衰退したことを惜しんでいました。そのため、自分でドイツやフランス、イギリス、ロシア、日本から版画を買い集めていました。1930年、完造の協力もあり、内山書店の近くの上海購買組合の二階で魯迅所蔵の版画展覧会を開催したこともありました。

嘉吉の実演とその場で出来上がった版画を見て、魯迅は版画講習会の講師役を嘉吉に依頼し、自らはその通訳を買って出ました。13人いた受講生の中には、後に中国美術家協会会長になる人もいました。

嘉吉は、受講生から「私たちの最初の版画の先生」として崇められ、1949年以降も交流が続いていました。受講生たちから近況報告の代わりに送られてきた多くの版画作品は、1975年に嘉吉が神奈川県立近代美術館に寄贈し、当時すでに600点にも達していました。そうした交流は、1984年に嘉吉が亡くなるまで続いたといいます。

中央美術学院版画系主任教授・李樺

■完造は「父や母よりも大好き」

完造と弟・内山嘉吉さん

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