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小説家・古川日出男、北京で「アジア文学」を語る(2)

CRIPublished: 2019-04-02 20:23:00
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『平家物語』が『源氏物語』と違うところは、まずは漢字混じりの仮名書きで、和漢混淆体だということです。そのため、仮名文学の『源氏物語』よりも今の日本語に近いです。

もう一つは、『源氏物語』が一人の作者が文字で書いたスゴイものだとすると、『平家物語』は、誰が書いたかも分からない、明らかに複数の作家がいた、もしかしたら何十人いるかも知れない人たちが、どこかから話を集めて、大きなものに書いて、目の見えない、いわゆる障害者、下層階級の人たちが日本中に広めて、いろんな人に届けていった物語です。

この『平家物語』は日本の、ある種の「国民文学」として受け入れられています。これを読むことによって、(私も)今の日本がどうできたのか理解できるようになりました。でも、不思議なこともあります。訳していてびっくりしたのですが、国民文学と言っているわりには、中国の話が異様に多いんです。

たとえば、日本の貴族が遠い、遠い辺境の島に流された後、ひどい目にあったというエピソードを説明するために、中国の歴史を説明するんですね。この章のタイトルは「蘇武」と言います。漢の将軍の名前です。日本の康賴(やすより)という人が不幸な目にあった。それを知るために大陸、つまり中国の、蘇武という人の話があるのです。

それだけではありません。やっぱりすごいなと思ったのは、儒教です。『平家物語』は儒教の色彩がすごく濃いのです。

『平家物語』全体の中心人物は、平清盛という平家のトップです。彼は孫を天皇にすることで影の権力を握った人間で、結構ひどい人間として書かれているんですが、その息子の平重盛はなかなかのヒーローとして書かれています。儒教を体現したような孝行息子で、いつも孝行することを考えていることが、すごいと評価されている。こういった、儒教の色彩を持つ内容が、『平家物語』にはいっぱいあるんです。

それを、琵琶法師の演奏と歌と共に、当時の日本の一般人が聞いて、しかもその後、国民文学として紙に書き残され……、それこそ中国と日本の戦争の頃まで、「日本人は『平家物語』のように勇ましく生きるべきだ」というような、まずい使われ方をしてしまったのです。

<日本らしさと中国らしさのミックス>

ただ、全文で中国色が強いのかというと、やはり和漢混合文、つまり漢字と仮名が半々であるという言葉が表しているように、日本らしい部分もあります。中国とは離れてしまっている部分もあるのです。

『平家物語』の中には仏教の話がものすごく多いです。例えば浄土宗が出てくるんですが、法然(ほうねん)という人物、日本の浄土宗の宗祖とも言える人ですけれども、彼は「一般人もお坊さんのように大変な修行をしたり、大変な勉強をしなくても、仏教に救われるはずだよ」と言いました。「南無」という言葉をつけて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、とにかく、南無阿弥陀仏と言っていれば救われると言ったんです。

『平家物語』の中でも、南無阿弥陀仏という言葉はいっぱいあって、その南無阿弥陀仏を10回唱えたと書いてあった。必ず10回、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と書いて、10回唱えたことを可視化しているんですけど、そうやって一般人のための宗教として、本来の仏教から言えば、突然変なふうに日本の仏教が進化していった。これはまさに日本らしいことで、(『平家物語』にも)その日本らしさと、中国らしさというのが半分混じっています。翻訳しながら、そういうことにどんどん気づいていきました。

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