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【日本語放送80周年~その時その人】八木寛さん

CRIPublished: 2021-12-15 18:46:00
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仕事だけではなく、若い中国人スタッフにとって、八木さん夫妻は生活の面倒まで見てくれる家族や親戚のような存在でした。

李順然さんによりますと、「当時、独身だった多くの中国人スタッフたちが風邪をひいて熱を出すと、まず駆け込むのが『八木病院』、つまり八木さんのお宅でした。八木家に行くと、奥さんが作ってくれたおかゆや茶碗蒸しを食べて、ふわふわの布団で2~3日静養します」。このように、八木家の心も体も温まるおもてなしを受け、八木さんの教えを受けた若い中国人スタッフは、名前が分かる人だけでも百人近くに上るそうです。

1960年5月9日午後、天安門広場に集まる北京市民百万人による「日本人民の反米愛国闘争を声援する大集会」の実況中継に立つ八木さん

凍土(いてつち)に凍(いて)つき生ける根深(ねぶか)かな

これは八木さんが残した俳句です。酷寒の地での厳しい暮らしぶりを表現しています。故郷・愛媛は正岡子規の出身地である土地柄から、小さい時から俳句が好きだったようです。また読書が大好きで、家には中国語の書籍が沢山ありました。

三男・章さんによりますと、八木さんは今治西高校の前身である旧制中学校時代は野球に打ち込み、北京では、夕食後にレストランに設置されている卓球台でひと汗かくのが趣味だったそうです。しかし、スポーツ以上に好きだったのが俳句でした。祖父と父の影響を受けて、小学生の時からたびたび父と一緒に俳句の集まりに出向いていたそうです。

北京放送での収録風景

八木さんは、中国が文革のさなかにある1970年に一家を引き連れて北京を離れ帰国しました。定年してすぐに帰国を決めた理由について、八木さんは自分史の中でこう綴っています。

「帰国にはいろいろな理由がありました。年齢、郷愁、子供たちの成長といった個人的な問題のほかに、いつも心の底にあったのは、中国の民衆の生活レベルから浮きあがっているいわゆる『外国人専門家待遇』です。こうした恵まれすぎた生活を続けていくことが不安だったのです。中国の民衆と苦楽を共にするという初志から離れていくのが不安だったのです……」

日本に帰った八木さんは、中国関連の書籍を扱う東京の東方書店で出版部長を務めるかたわら、北京放送の普及を主旨とする「北京放送を聞く会」のボランティア活動などを通して、中日友好に汗を流し続けていました。

帰国後、「北京放送を聞く会」を立ち上げてボランティア活動に励む八木寛・トシ夫妻

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