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【日本語放送80周年~その時その人】八木寛さん

CRIPublished: 2021-12-15 18:46:00
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2021年12月3日は中国共産党が率いる中国人民対外放送開始80周年です。その第一声は日本語放送でした。これまでの80年、どのような人たちがどのような思いで放送に携わってきたのでしょうか。シリーズでお伝えします。

⑥北京放送最初の日本人局員

原点は八路軍の少年兵から受けた衝撃

日本が降伏した直後、中国大陸には日本軍や日本人居留民など300万人あまりが留まっていました。送還完了までの数年間に、東北地区の長春(1945年8月)、大連(1946年)、瀋陽(1948年7月)では主に日本人居留民向けの日本語放送が行われていました。これらの放送は北平新華放送局(9月27日から「北京放送局」)の開局と共に使命を終え、放送に携わっていたスタッフの一部は北京に移ることになりました。

1949年10月、当時、極度の人手不足だった北京放送局に、日本人スタッフの第1陣が瀋陽から到着しました。八木寛(ゆたか)さん(1915~2008)と妻のトシさん(1919~2011)です。

東北時代の八木寛さん

八木さんは1915年、愛媛県生まれ。20歳で中国の東北地方に渡り、東北と華北地方を回り、土建屋や塩の商いを行なう会社などを経て、シナリオライターとして日本が偽満州国に設置した国策会社「満州映画協会」に入社。長春で日本の敗戦を迎え、その後、東北電影公司、東北映画製作所での勤務を経て、1948年6月に東北新華放送局に編入。

東北にいた頃、日本人居留民に中国の実情を伝えるため、八木さんは毛沢東の『延安の文芸座談会における講話』を日本語に翻訳し、瀋陽で発行されていた日本語新聞『民主新聞』に発表しました。それがきっかけとなり、八木さんは毛沢東の著作を最初に翻訳・出版した日本人としても知られるようになりました。

新中国成立後、居留民のほとんどが日本に引き揚げた中、八木寛さんはなぜ妻、子供とともに、中国に残ることを決めたのでしょうか。

実は、八木さんが日本の敗戦直後、長春で東北民主聯軍(八路軍)との出会いが大きなきっかけとなったようです。八木さんは自分史の中で次のような記録を残しています。

「私はこの目で日本軍、国民党軍、ソ連軍、八路軍という4つの軍隊を見てきた。その中でも、最も規律が正しく、まじめで正直だったのは八路軍の兵士たちであった。彼らとの出会いに深く感銘し、そして心の底から彼らに協力したいと思い、シナリオライターだった自分の専門分野である映画の仕事から、彼らと共に新しい中国の発展のために仕事をすると決めた」

若き頃の八木寛さん

1946年3月、国民党軍とたたかう中国共産党指導下の東北民主聯軍(八路軍)が長春に入城した後、八木さんは、自宅の一部屋を東北民主聯軍に指揮所として提供しました。夜になれば、少年兵たちがその部屋に泊まるようになっていました。

ある晩、山東省出身の少年兵・張君とよもやま話をしていた時のことでした。16歳の張君は両親、兄弟とも日本軍に殺害されたことを八木さんは初めて知りました。張君は「恨みを晴らすために八路軍に入った」と話した後に、こう続けました。

「八路軍の幹部は、中国を侵略し、中国人を殺したのは日本の軍国主義者で、日本の民衆は同じく戦争で苦しんでいると教えてくれました。東北にやってきて日本人を見て、この道理がいくらか分かって来ました。八木さん一家はみな良い人です。いろんなことを教えてくれるし、部屋も貸してくれました。八木さんは友人です。仲間です。同志です……」

その話を聞いた八木さんは涙が止まらず、顔をあげることもできなかったそうです。北京放送局OBの李順然さんは、八木さん本人に聞いた話の記録として、「八路軍の少年兵と八木寛さん」と題したエッセーで次のように綴っています。

「『正直言って、わたしの涙には嬉しい涙もあったんですよ。張君から、友人、仲間といわれ、同志といわれて、しっかり手を握りあった。わたしの心の片隅にずっとあった日本人と中国人という冷たい氷の壁が春の陽を浴びて暖かく溶けていくのを感じて、とてもとても嬉しかったのです』

異国の土地で敗戦を迎えて前途に強い不安を抱く毎日を送っていた八木さんの前に開かれた新しい道――張君たちと、中国の民衆と苦楽を共にしていこうと繰り返し心に誓うのだった。こうして、新しい道を歩む八木寛さんの後半生がこの日から始まるわけである」

1949年10月に新中国が成立したものの、交通機関をはじめ、国内情勢はまだ完全に落ち着いてはいませんでした。八木さんより約2か月早く入局した陳真さんは、長旅の末、放送局に到着したばかりの八木さん一家との初対面の様子について、自伝『柳絮降る北京より』の中で、次のように書いています。

「不精ひげをはやし、煤だらけの真っ黒な顔をしたおじさん――まるで山賊だ。そのひざにもたれているのは目のクリクリした小さな男の子、そばのソファには、顔だちのととのった女の子が行儀よくチョコンと座っている。二人とも、顔は煤で汚れていた。奥さんらしい女性は背中しか見えない」

その時から、1970年に帰国する日まで、八木さん夫妻は北京放送で20年あまり勤務しました。在職中、八木さんは若手中国人スタッフを連れて、「デンスケ」(取材用可搬型テープレコーダーの商標、ソニーにより1959年に登録)を担ぎ、胡同(裏路地)の物売りの声を収録して番組に使い、北京放送初のリスナーを対象にしたアンケート調査の実現などに貢献しました。また、「お便りの時間」「水滸伝」「西遊記」「街で拾った話」「あの話、この話」……などなど多くの名番組を生み出しました。そしてトシさんは長年、日本の聴取者からのお便りに対応する仕事を担当し、リスナーに大変好評だった中国の切り紙を送ることを提案した人でもあります。

1960年代初め、中国人若手スタッフ・李順然さん

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