【空海が最初に降り立った中国の地・福建省赤岸村〜空海大師記念堂〜】
漂着から始まった赤岸村と空海の縁は中国と日本の双方の尽力により今も途切れることはない。
上述したハルビン師範大学の游寿副教授による1981年の研究結果は、中国の歴史学界、仏教界、日本の高野山など各方面から注目された。1983年6月、日本の高野山真言宗の宗務総長・阿部野竜正氏が北京を訪れ、中国仏教協会の趙朴初会長と面会した。その際に阿部野宗務総長は、「私たちの宗主は1200年前、現在の福建省霞浦で救助されたことがある。私たちの信者たちはそこで恩返しをしたいと思っている」と語った。
そして、翌年1984年、「空海・長安への道」というテーマの下に日本側から訪問団が福建省を訪れた。当時の訪中団団長を務めた静慈圓氏は、「赤岸」の二文字を見つけて涙を流した。「1000年以上前、私たちの宗主がここで遭難して救助されたことで、密教が日本に伝承された。1000年以上経った後、ここで私たちは温かいもてなしを受けた。『赤岸』という文字は永遠に私たちの心に刻まれるだろう」と話した。これ以降、現在までに日本から200組以上の訪問団6000人以上が赤岸村を訪れている。
●中日交流の場「空海大師記念堂」の建設
1993年4月、福建省霞浦県人民政府は日本の高野山真言宗総本山金剛峰寺と中日両国が共同で空海大師記念堂を建設する協定書を締結した。これは高野山真言宗総本山宗務総長の新居祐政氏が中日文化交流の場、参拝する場として記念堂の建設を提案したことにより実現した。建設費用は中国側と日本側のそれぞれで負担し、1993年5月に着工、翌94年5月に竣工した。
空海大師記念堂
空海大師記念堂の内部には空海によってもたらされた中日友好の証が展示されている。入ると正面には空海の立像があり、目の前に置かれた仏具は全て日本側が提供したものだ。また、境内には友好の歴史を物語る数多くの石碑が建立されている。
記念堂内にある空海立像
仏具は全て日本側からの寄贈