【空海が最初に降り立った中国の地・福建省赤岸村〜空海大師記念堂〜】
●空海入唐の地・赤岸村
今から1200年以上前、真言宗の開祖・空海は遣唐使として日本から中国に渡った。804年に難波を出航した空海一行は荒波の中を34日間漂流し、やっとのことで到着した中国の地が福建省赤岸村だった。
1981年、ハルビン師範大学の游寿副教授は平安時代初期に編纂された勅撰史書『日本後紀』の記述から、空海が最初に到着したのは福建省寧徳市霞浦県赤岸村だったとする研究結果を発表した。これをきっかけにして、赤岸村は「空海入唐の地」であることが世に知られるようになった。
「空海入唐之地」の記念碑
現在、空海到着の地はあたり一帯に畑が広がり、当時の様子を垣間見ることはできないが、石碑が建てられ、確かに空海がそこにいたことを物語っている。
空海漂着記念碑
赤岸村から空海は長安を目指すことになったが、突如、漂着した遣唐使一団に上陸許可がすぐに下りることはなかった。日本から出発した4隻のうち、2隻が遭難し、遭難した船に使節であることを証明する国書や印付が積まれていた。そのため、上陸することができず、許可の認可まで船の中で約二ヶ月を過ごすことになる。この間、赤岸村の住民たちは空海らに食料などを提供していたとされ、交流があったことが伝えられている。
当初、上陸許可の嘆願書は思うように受理されなかった。赤岸村に到着してから数日後、新任の長官・閻済美が着任した。遣唐大使の藤原葛野麻呂が書いた文章は自分たちの思いがなかなか伝わらず、何度も書いたものの閻済美の疑念を晴らすことはできなかった。そこで代筆を担当したのが空海だった。閻済美は文学の造詣に深い人物であったため、空海の文章を一目見て、その教養の高さ、文章力に驚き、長安に使いを出して遣唐使一段の上陸を許可するように手配した。空海の一筆があったからこそ、遣唐使の大業を果たせたと言っても過言ではない。
●1000年以上の時を超えて始まる訪中団交流
記念堂内に展示されている訪中団のタペストリー