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小説家・古川日出男、北京で「アジア文学」を語る(3)

CRIPublished: 2019-04-09 20:12:00
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日本語の声からアジア文学を探る

案内:王小燕

今年でデビュー20年を迎えた日本の小説家、劇作家の古川日出男さんのお話の最終回です。引き続き、昨年秋、古川さんが北京外国語大学北京日本学研究センターで行った講演会と交流会の様子を紹介します。

これまでの番組では、古川さんがこのテーマをめぐり、ご自身の文学的実践として、『源氏物語』と『平家物語』から受けたヒント、または再創作、もう一度書き直す作業で感じたことを紹介しました。今回はいよいよ本題の「アジア文学の可能性」について総括します。学生たちからの質問にも答えていました。

◆古川日出男氏の北京外大での講演内容(抜粋その3)◆

<原文に、そして表現したい真意に近づけたい>

少し前に、フランスの作家の戯曲の朗読をしました。この時は、女優と映画監督と私がステージに出ていくんです。女優はある本を手に持っている。映画監督も違う本を手に持っている。僕は何も手に持っていない。

女優がこの本で、ある登場人物のセリフを言う。こっちの映画監督も別の本で言う。僕は何かをそこで聴いて言う。どうもなんかすごく似ている。違う言葉なんだけど似ている。僕の言葉は違うんだけど、やっぱり似ている。それが50分も続いて、最初は見ている人は何をやっているか分からないんだけど、10分ぐらいで、「もしや」と思うわけです。

これはアルベール・カミュというフランス作家の戯曲。これを翻訳家が違う風に訳したものを、この人とこの人が読んでるじゃないか。実際、こっちの女優は1991年の新潮文庫の戯曲を読んでいます。こっちの映画監督は2008年の早川演劇文庫の戯曲を読んでいます。古い翻訳と新しい翻訳です。

僕は何をやっているかというと、二人を聞いて、本当はフランス語で言いたかったことは、こうなんじゃないかとフランス語が分からないのに、日本語から想像して新しいセリフを作っているんです。

だって、このセリフとこのセリフが見せてくれる風景が、繋がっているものを僕の日本語にした、この二人が訳しようとしたものをちょうどミックスした、原文に近いところに行くんじゃないかと思って。これって、滅茶苦茶なことなのかなあと思うと、いや、そうじゃないじゃないんかなあって、小説家としては思うわけです。

僕ね、小説書いているときに、頭の中に、全部書ける形で物語や文章が浮んでいるわけじゃないです。書きたい世界が見えているんだけど、それを書く力はいつも自分にはないと思って、どうやって描写したらいいのか、どうやってこの登場人物に迫っていたらいいのか、考えて、考えて必死に言葉にしています。ですが、僕が実際書こうとして見えている世界と実際書いた本には、もしかしたらズレがある。

翻訳家というのは、この日本語だったり、あるいはカミュの場合はフランス語だったりするものを自分の言葉に変えようとする。この書いた言語から、こっちに置き換えようとしているんですけど、本当は翻訳された本も、僕が見たこの世界を読者に読ませようとしているわけです。優秀な翻訳家は、この原文を直接、一語一語逐語訳するんじゃなくて、作家が言いたかったこと、本当に描写したかったことを自分の言語に変えようとします。つまり、翻訳家もここに近づこうとするんですね。

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