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日本は「漠然とした平和教育」よりも加害の歴史を伝えよ~ジャーナリスト・乗松聡子さんに聞く

CRIPublished: 2023-08-18 22:53:44
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2023年8月12日が中日平和友好条約締結45周年の日です。8月は、戦争と平和について多く語られる季節でもあります。こんな中、歴史に向き合い、和解を実現するには何が大事なのか、カナダ在住のジャーナリスト・乗松聡子さんにオンラインでお話を伺いました。

乗松聡子さん

■「日本よ、アジアに戻ろう」 そして「漠然とした平和教育」に別れを告げよう

――8月10日に東京で開かれた「日中平和友好条約締結45周年記念大集会」で、乗松さんは「日本よ、アジアに戻ろう~歴史と向き合う友好を築く~」と題したスピーチを行いました。ここで言う「アジアに戻る」とは?

日本人は物理的にはアジアにいるのに、歴史認識においても、アイデンティティにおいても、アジアと乖離しているように見えます。私はそれについて大変悲しく思っており、気持ちも頭もアジアに戻るべきと思っています。

また、中国との関係においては、日本人が加害の歴史の事実を学び、それを記憶し、継承し、二度としないという決意を新たにしてこそ友好が初めて可能だという思いを訴えたかったのです。

――日本人の「アジアとの乖離」について、どうように実感していますか。

たとえば、日本語では、「アジアン料理」というとタイ、インドネシアのようなエスニック料理を指し、海外旅行に行く時は「アジアに行こう」とかというふうに言っています。そうした言葉使いからも分かるように、日本人は今も自分のことを「アジアの一部」と思っていないようです。

歴史を振り返ってみますと、福沢諭吉の「脱亜入欧」思想のように、日本人は自分たちをアジア諸国の中で、格上の存在として見る思想がありました。それが中国を初め、アジア太平洋全体での日本軍の残虐行為や、日本人による他のアジア人への差別感情の温床となったという指摘があります。

評論家の故・加藤周一氏は言っていました。「南京大虐殺は現代人と関係がないとは言えない。現代の日本社会には、南京大虐殺を生み出した一因である差別感情がまだ残っていないか、2度と起こさないために、それを調べることが若い世代の責任であり、だから歴史を学ばなければいけないのだ」、と。

――ところで、海外生活が長い乗松さんの目には、戦後日本の平和教育はどのように写っていますか。

私は、日本の平和教育において、日本人が被害者だったという体験ばかりでなく、大日本帝国による加害の歴史にこそ自覚を持つべきだと思っています。残念ながら、日本の教育制度では日本における原爆や空爆の被害を取り上げて、「戦争はいけない」とか、「平和を祈る」といった、漠然とした平和教育が中心だと思います。大日本帝国が行ってきた他国への侵略や、植民地支配の事実や、それを支えてきた民衆の差別心を克服するような教育はほとんどないと言っていいと思います。

1984年 カナダ・ビクトリア市のレスター・B・ピアソンカレッジ留学中の乗松聡子さん

私自身は、高二と高三をカナダの国際学校で、70カ国から来た200人の学生たちと寮生活をしながら学んでいました。お陰で、日本の学校では聞いたことのなかった歴史についてアジアの同胞から聞きました。例えば、シンガポールの友人からは、日本占領地の華人虐殺について、「日本軍が赤ん坊を銃剣で串刺しにした」とか。インドネシアの友人からは、未だに現地の人から「ロームシャ」という言葉で記憶されている、強制動員の歴史について聞きました。その頃から今に至るまで、中国や韓国や様々なアジアの同胞と付き合うようになり、自分は日本人というよりも、アジア人というアイデンティティを持つようになりました。

■加害の歴史を伝える資料館や記念碑が「希望」

――ところで、乗松さんは、「平和のための博物館・世界ネットワーク」の共同代表を務めているようですが、どのような組織ですか。

「平和のための博物館国際ネットワーク」(International Network of Museums for Peace)」は1992年に設立された、世界中の平和のための博物館を横につなぐネットワークです。約40の団体会員と約150人の個人会員がいて、一番会員が多い国は日本です。団体会員の中には、スペインのゲルニカ平和博物館、カナダの国立人権博物館、日本の立命館大学国際平和ミュージアムなどがあります。3年に一度国際会議があり、今年は14~16日の日程で、スウェーデンのウプサラ市で開催しました。中国からは中国人民抗日戦争紀念館なども会議に参加していたときがあり、今年は南京のジョン・ラーベ記念館の関係者が出席しました。

――乗松さんはこの運動に約20年関わってこられたと伺っていますが、近年、日本国内で注目する博物館はありますか。

日本では、学校で教えない、日本の加害の歴史を伝える資料館や記念碑が各地にあることを私は希望に思っています。「中帰連平和記念館」がその一つです。

日本の敗戦にあたり、ソ連軍は約60万人の日本軍捕虜をシベリアに抑留しましたが、1950年に969名が戦犯として中国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されました。新中国の寛大な政策により、戦犯たちはちゃんとした食事を与えられ、学習や文化活動も許され、「鬼から人間へ」戻ることができました。そして、自分たちの罪を認めるようになりました。軍事法廷では結果的に1人の死刑や無期懲役もなく、禁錮8年から20年の有罪判決を受けた45人も、シベリアの5年と管理所の6年が刑期に含められ、全員が1964年までに帰国を許されました。被害者が加害国の戦犯をあえて許したという、「撫順の奇蹟」と言われる歴史です。

「中帰連平和記念館」外観

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