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「中日両国の人々は仲良くしていける」~訪中学生団の会「ちいら会」井垣清明会長に聞く〜

CRIPublished: 2022-11-15 20:52:51
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――ほかに忘れられないエピソードは?

杭州を訪問した時のことでした。柳浪聞鶯公園では、1962年に訪中した岐阜市市長が揮毫した「日中不再戦」の碑が建っています。その碑の裏には、日本の兵隊が中国を侵略したという内容が書かれています。それを読みながら解説してくれた顧問の六角先生という方は、途中から自分が軍人として中国に行った時のことを思い出して、涙声になり、言葉がうまく繋がりませんでした。「中国に対して、良くない戦争をした」というその気持ちがひしひしと私達に伝わり、「日中不再戦」と「日中友好」というのが、表裏の関係だなとつくづく思いました。

実は、岐阜市長の碑は杭州市長による「中日両国人民世世代代友好下去」の書と取り交わされた形で、建立されたものです。杭州市長の書が彫られた碑は今も、岐阜公園外苑(現日中友好庭園)に立っています。

――ところで、1965年の中日関係は「以民促官」、つまり、民間が主役の時代でした。その年、日本から500人の若者が中国側の招きで訪中し、歴史に残る「中日青年大交流」が行われました。井垣さんたちの参観団はそちらと合流して活動も行いましたか。

中国に着いてから、「日本の学生の方々も青年大交流に参加しませんか」という提案を受けました。団員の中には、就職が決まったなどの理由で参加を見送りたい人もいましたが、議論した結果、「参観」の形で参加を決めました。それで、北京の滞在がほんの何日か延びました。そのため、帰途の北京から広州までは、列車の予定でしたが、結局飛行機に乗って帰ることになりました。

<中日友好は大きな川の流れのよう>

――皆さんの「ちいら会」の由来を教えてください。

1965年夏、「明日は羽田空港」という香港で過ごした最後の晩に、「この団を解散するのは非常に心苦しい、忍びない。団として残そう」と言った時に、団の名前について提案が挙がりました。それは、バスに乗る時もどこかに行く時も、良く聞かされる「斉了吗(みんな揃いましたか)」という言葉でした。団の人はみんな耳慣れた明るい言葉ですから、「じゃあ、『ちいら会』にしよう」というのが会の由来です。

「ちいら会」の訪中団は国交正常化を実現した1972年までに8年間連続して実施し、大体800名の団員が会員になっています。私は8回のうち、1969年の第5回派遣まで続けて参加しました。また、国交回復した後、四川大地震後の復興支援等を企画した時の参加者も会員に加わっていますが、今も活動を続けているアクティブメンバーは約100名ぐらいです。

――「57年展」に込めた思いは?

私たちはとにかく中国に行ってきたという体験が元になっています。そして、中国の方々との温かい友好交流を積み重ねてきただけに人的往来がとても大事だと思っています。コロナで行ったり来たりできない中、中国の情報をなるべくたくさん日本の中に広めていく。それが中国との友好関係を増進することになると思っています。開幕直前まであたふた、右往左往しながらやっています。苦労が大きいと、喜びもそれだけ大きいわけです。苦労した裏返しの喜びをゆっくり味わいたいなと思っています。

――この展示会を通して、一番伝えたいメッセージは?

まあ、私の考えでは、「中国は怖い国じゃないよ。中国の人達は温かいよ。仲良くできるんだよ。私はそうなんだから」ということを伝えたいですね。とにかく中国とは喧嘩をしてはならない。仲良くしましょう。これが基本ですね。

11月14日、「訪中学生団57年記念展」開会式の様子

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