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【日本語放送80周年~その時その人】王艾英さん

CRIPublished: 2021-12-01 17:26:00
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1980年、当時77歳の王艾英さんを日本語放送の李順然記者が訪ねました。

「あの頃(1949年6月頃)、日本語放送は全員がたった2~3人だったと覚えております。今、中日友好協会会長の廖承志さんが局長でした。放送時間は15分間。アナウンサーは私一人でした。ニュースから解説、それから音楽の紹介まで担当しました。忙しいというよりか、緊張していまして、レコードをかける時なども手が震えて、困ったことなどを覚えております」

「こちらは北京放送局であります」――これは王さんが放送した時のコールサイン。王さんの日本語について、李さんは、「非常に歯切れがよくて、語尾がきちんとしている。昭和初期に女子大に入った知識のある女性の話す言葉という印象」と語っています。王さんはのちに、放送局を離れ、中国人民世界和平保衛委員会で業務を行なっていました。当時、北京滞在中だった日本の社会活動家、西園寺公一さんと仕事で一緒になった時期がありますが、西園寺さんは「きりりとした日本語」と高く評価していたそうです。

1949年8月末、新中国の成立まであと1か月ほどという時に、日本語放送に5人目のスタッフが入局しました。その人は当時まだ16歳の陳真さん。彼女はその3日前に、生まれ育った日本から台湾、香港を転々として、約2年をかけてようやく父親のいる北京に戻ってきました。

陳真さんの自伝『柳絮降る北京より』によりますと、当時の日本語放送は朝5時からの15分間と夜7時からの30分間の2回行われ、いずれも生放送でした。専任スタッフは王艾英アナウンサーのほか、20代の蘇琦アナウンサー、日本への留学歴があり、帝国大学卒の男性翻訳者2人の4人しかいませんでした。マイクに向かった時のことについて、王さんは「汗ばむ夏の印象が強烈だった」と次のように振り返りました。

王艾英さん

「あの年の夏の暑さは覚えています。もちろん冷房もありませんでしたし、スタジオはとても暑くて、そのうえ、緊張していますので、汗が余計に流れてくるんです。時には、汗が目に流れ込んで原稿が読めなくなるので、本当に困りました」

いまでは想像できない環境ですが、実は、当時の中国は内戦がまだ完全に収まっていませんでした。陳真さんの自伝によりますと、彼女が入局した時の放送局は、「窓という窓には、頑丈な鉄格子がはめられていて、国民党軍の空爆が絶えないため、窓ガラスには爆風よけの細長く切った新聞紙が『米』の字に貼られていた」と記されています。過酷な条件の中にもかかわらず、発足したばかりの北京放送局では、無我夢中で仕事に取り組んでいた人たちがいました。

1949年10月1日、中華人民共和国の開国式典が行われた日。王艾英さんの強い後押しで、当時一番の新人だった陳真さんが放送局員の隊列に加わり、天安門広場で開かれるセレモニーに参加することができました。

その日の夜、仕事が終わった後、日本語放送の全員はそろって白湯(さゆ)でささやかに祝盃をあげてから寮に戻りました。寮では陳真さんは王さんと同じ部屋でした。放送に向かった時の思いについて、リアルに描かれた次のようなエピソードがあります。

陳真著『柳絮降る北京より』から抜粋:

ふだんバタン、グーなのに、気持ちがたかぶってなかなか眠れない。同室の王さんがポツリと言った。

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