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【日本語放送80周年~その時その人】王艾英さん

CRIPublished: 2021-12-01 17:26:00
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2021年12月3日は中国共産党が率いる中国人民対外放送開始80周年です。その第一声は日本語放送でした。これまでの80年、どのような人たちがどのような思いで放送に携わってきたのでしょうか。シリーズでお伝えします。

②新中国の声を世界に北京放送局の開局

1940年末に中国語放送から始まった延安新華放送局は1943年春、機材の故障で一時放送停止を余儀なくされました。放送が再開されたのは、日本が降伏する前夜、1945年8月のことでした。

新華放送局はその後、陝西省の延安王皮湾から瓦窰堡、河北省渉県の沙河村、石家荘の西柏坡などを転々として1949年3月に北平に移転しました。そうした中で、1947年9月11日、新華放送局は沙河村のヤオトン(中国の黄土高原などで見られる土中の家)で初の英語放送を始めました。残された当時の原稿から放送内容を垣間見ることができます。

「中国は前に進んでいます。この放送はこれから、全人類の五分の一を占める中国人民が万難をとりのぞいて、新たな民主的な暮らしに向かっている様子を伝えてまいります。今後の世界に大きな影響を及ぼす動きとなるでしょう」

華北平野からの英語放送の電波は南アジア、東南アジアにも届き、天気の良い時は、欧州や北米地区でも受信できたと言われています。番組内容は、時事ニュース、解放区のニュース、時事評論、有名人の講演などがありました。

一方、日本語放送の再開は、1949年6月20日まで待たなければなりませんでした。

1949年1月、古都「北平」は平和解放。同年3月25日、新華放送局が北平に移り、事実上の全国向け放送のキー局となりました。統括は廖承志氏(1908~1983)。廖氏は東京生まれで、1928年に20歳で中国に戻って革命に参加しました。日本語が流暢だったため、のちに日本語放送再開の陣頭指揮も取った人物です。

6月5日に新華総社語言広播部は中央広播事業管理処に拡充され、全国の放送事業を統括する部署ができました。それを受けて6月20日、新華放送局で日本語放送が再開され、その日から現在にいたるまで、電波は一日たりとも途切れることなく送られ続けてきました。

1949年9月27日に「北平」は「北京」に改められ、それ以降、「北京放送局」の名が世界で知られるようになりました。

1950年4月10日北京六部口中央人民広播電台国際広播編集部発足

窓ガラスには「米」の字に貼られた爆風よけの新聞紙が残っている

北京から送信された日本語放送で、最初にアナウンサーを務めた人は日本育ちの華僑、王艾英さんでした。

王さんは教育熱心な父親の下、お茶の水女子大学で学びました。その後、1930年代に法学者の夫である何思敬教授とともに祖国に帰国し、延安へ向かいました。夫は延安にある日本労農学校で教壇に立ち、王さんは当時、延安滞在中の日本共産党の指導者・野坂参三氏(延安時代では岡野進や林哲などの仮名使用)の事務所で働いていたそうです。

中年の王艾英さん

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