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【日本語放送80周年~その時その人】原清志さん

CRIPublished: 2021-11-26 23:42:00
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1941年12月3日、原清子さんが第一声を発したヤオトンスタジオ修繕後の様子

中国国際放送局(現:チャイナ・メディア・グループ)内に陳列された原清志さんのパネル

原さんは延安の新華放送局のアナウンサーとして、マイクを通じて、中国に侵入した日本軍兵士に日本語で反戦を訴えました。当時の設備はたいへん粗末なもので、消音にはふとんを使い、炭を使って、手で回して動かす発電機で発電していたということが分かる写真が残されています。放送そのものは、機械の故障などで停止を余儀なくされるまで約1年半続きました。

原さんたちは延安でどのような放送をし、電波はどこまで届いていたのでしょうか。

北京放送OBの李順然さんによりますと、当時の延安では、中国北部で八路軍(中国共産党の指導する軍隊)の捕虜になった日本の元兵士が日本反戦同盟をつくり、日本軍に対する反戦活動を進めていました。

1942年8月15日から28日までの二週間、延安を流れる延河のほとりで、「中国華北地区日本兵代表大会」が開かれた記録が残っています。中国北部各地で反戦活動を進める元日本軍兵士50数名がここに集まり、燃えるような八月の太陽の下で反戦を誓い、その活動の進め方について熱い討議を続けました。

原さんは、この大会に出席していました。そして、大会で採択された「日本の兵士に訴える」というアピールの要点を新華放送局のマイクを通じて放送し、受信した日本の将兵に大きな感動を与えたと言われています。ちなみに、この大会には当時、延安にいた日本共産党元議長の野坂参三さん(延安時代は「岡野進」や「林哲」などの仮名を使用)も出席していました。

日本が敗戦した後、原さんは中国東北地方の遼寧省で暮らしていました。長い革命歴をもつ原さんに、要職に就くようにという話もありましたが、彼女は「わたしは学問のない人間ですから」と言って、幼推園の園長など、目立たない仕事に汗を流しつづけ、2001年、遼寧省瀋陽市で、静かにその生涯を終えました。原さんの枕元には延安時代から大切に使ってきた一冊の日本語辞典が残されていました……

原清子さんの遺品

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