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【日本語放送80周年~その時その人】原清志さん

CRIPublished: 2021-11-26 23:42:00
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2021年12月3日は中国共産党が率いる中国人民対外放送開始80周年です。その第一声は日本語放送でした。これまでの80年、どのような人たちがどのような思いで放送に携わってきたのでしょうか。シリーズでお伝えします。

①革命の地延安からの第一声

延安時代の原清志さん

中国共産党が率いる人民放送事業の始まりは1940年に遡ります。

当時の中国には、侵略者の日本によって開設された60以上の局のほか、民衆の隷属化意識を植え付けようとする親日的な放送を行う傀儡政権の放送局も多数ありました。また、米英ソ独伊仏などの列強もいずれも中国国内で放送局を運営していました。当時の中国共産党には通信社があったものの、放送機材の不備で放送を行うことができていませんでした。

のちに新中国の総理となった周恩来氏が人民放送事業に深く関わっていました。周氏は1939年、負傷した右腕の治療のため、ソ連のモスクワに渡ります。翌1940年3月に帰国する時、コミンテルンから譲渡された一台の中古発信機を持ち帰りました。この送信機こそが最も重要な機材でした。入国時、国民党や日本軍の検査を無事に通過できるように送信機は、ばらばらに取り外されて部品のままで一旦新疆に運ばれました。その後、車で蘭州、西安を経由して延安まで運びました。到着後、技術者たちの懸命な努力の下、もう一度組み立てて復元しました。

発信機が到着すると、市内の清涼山中腹部にある新華社通信に隣接する形でラジオ放送の編集室が設けられ、放送の準備が着々と進められました。

延安新華放送局編集部・清涼山オフィス

中国国内向けの中国語放送のほか、当初から交戦していた日本軍に向けた日本語放送も計画されていました。そして日本語放送の最初のアナウンサーになったのが、解放区にいた29歳の日本人女性、原清子(中国名:原清志)さんだったのです。

原さんは1912年東京生まれ。家が貧しく、幼くして両親を亡くし、15歳から働きに出ていました。社会活動に参加し、仲間でもあった最初の夫と出会い、18歳で結婚し、間もなくして母親になりました。夫はその後、活動中に警察に捕まって投獄され、刑務所で結核を患い、出所後まもなく息を引き取りました。原さんが23歳の時でした。その後、原さんは早稲田大学に留学中の中国人学生と知り合い、結婚。1937年3月、5歳の子供を連れて中国へ渡ります。中国共産党員の夫とともに、山西省の解放区で反戦活動をしていましたが、1941年のある日、延安で日本語放送のアナウンサーになってほしいとの依頼が来ました。

原さんをインタビューしたことのある中国国際放送局元副局長の胡耀亭氏によると、彼女は自分の学歴が高くないため、最初はアナウンサーの任務を引き受ける勇気がなかったそうです。当時の中央軍事委員会河北委員分会の朱徳主席は電報を3回も送り、彭徳懐副主席も「大丈夫。あなたは日本語がうまいし、声もきれいなので、きっと務まる」と説得しました。

彭徳懐副主席の熱心な説得により、原さんはついにアナウンサーの任務を引き受けることにしました。しかし、小学校は3年生までしか通っていない彼女にとって、アナウンサーになるには大変な努力が必要でした。胡耀亭氏は「録音が始まるまで、彼女は何回も練習する。夢の中でも練習を続けていた。これは原さんから直接聞いた話だ」と振り返りました。

当時、原さんが毎日使い、ボロボロになった辞書が今も残っています。

原清子さんがアナウンスをしたヤオトン(中国の黄土高原で広くみられる土中の家)は、技術的な理由で延安市内から20キロほど離れた王皮湾というところに移設されています。アナウンサー室はきちんと整備され、今もその形を留めています。一般的なヤオトンとは違い、天井にはぽかんと丸い穴が開いていて、そこにアンテナが立てられていました。

1941年12月3日、原清子さんが第一声を発したヤオトンスタジオ修繕前の様子

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