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ピンポン外交から50年、名古屋で記念シンポジウム(下)~友好のバトンは受け継がれていく

CRIPublished: 2021-09-10 21:15:00
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冷戦中の世界情勢を大きく変えた「ピンポン外交」から50年となる今年、「ピンポン外交」ゆかりの地である名古屋では先日、「温故知新ピンポン外交が導く未来」と題したシンポジウムを開催しました。歴史の生き証人たちを始め、友好団体の関係者、学者、両国の学生らがパネラーとして出席し、「ピンポン外交」の今日にとっての意義について話し合われました。先週に引き続いて、シンポジウムに出席した有識者たちの声を抜粋してお届けします。

コーディネーターを務める(公社)日中友好協会理事長の岡崎温さん

◆50年前の二人の中学生:若き心にまかれた友好の種

1971年3月、名古屋で開かれた卓球世界選手権大会を伝えるテレビ放送に、くぎ付けになって見ていた二人の少年がいました。片方は現地名古屋で暮らす日本人で、もう片方は中国の上海にいる中国人でした。その時の卓球観戦体験は、還暦を過ぎた今になっても、二人にとって忘れることのない「熱い思い出」です。

席上、日本の衆議院議員・近藤昭一さんは「大会の盛り上がりから大きな熱を感じた」と振り返り、ピンポン外交を振り返ると思い出す先人の言葉として、「政府の活動が動脈ならば、民間の活動は静脈だ。両者はしっかりと循環していくことこそ、良い関係が作れる」という故・村岡久平日中友好協会理事長の話に言及しました。村岡氏は1971年1月、日本卓球協会会長の後藤鉀二氏の同伴で中国を訪れた人でもあります。

近藤さんはまた中米関係の現状に触れ、「日本が改めて発揮する大きな役割がある」とし、ピンポン外交を振り返ることの意義を強調しました。

同じく、中国の上海では、テレビは貴重な存在で、家庭にはまだ普及していませんでした。そのため、テレビは会社の食堂や講堂などで、皆で集まって見るものでした。そんな中、観衆に紛れて、白黒テレビで愛知の世界選手権大会を見ていたのは現在、東洋学園大学教授の朱建栄さんです。

東洋学園大学・朱建栄教授

元から卓球が好きだった朱さんは、番組から触発を受け、「もっと卓球を上達させたい」、「もっと日本や世界のことを知りたい」と心を決め、その後の人生の進路の原点になったようです。

朱教授はまた、卓球交流から見えた中日協力の在り方について、次のように指摘しました。

「50年前、日中が互角に戦ったが、その前に中国は日本から多く学んだ。長い間、世界で卓球の発展をリードしてきたのは、常に日本だったと私は理解している。ドライブという技術も、ラケットの裏ラバーも日本で発明された後、世界に広がったものだ」

「今年の東京オリンピックでも、日本と中国がチャンピオンを分け合った。このように、卓球一つとっても、日本が色々と研究・開発し、中国もその中から吸収、消化し、さらに世界へと広げていく。そこから日中協力の一つの縮図が見えてきたような気がする」

朱教授は、「ピンポン外交」において「日本は、米中が動くことを察していたものの、表には出ずに舞台を提供して、接近に一つのきっかけを作った。私はこれからも、日本は米中の相互理解と関係改善に、50年前同様大きな役割があると思う」と指摘したうえで、「民間外交の発祥の地の一つとなった名古屋は、これからも日中、そして世界の平和のためにもっと発信してほしい」と期待を寄せました。

愛知大学国際中国学研究センター李春利所長

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