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<コロナ禍の戦後75周年、私が今思っていること>その4~北海道石狩市・上田知晴さん&東京都・山本加津彦さん

CRIPublished: 2020-08-04 23:20:00
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ご案内:王小燕

中国でも日本でも、夏と共に蘇る記憶があります。それは、戦争にまつわる記憶です。

ただ、同じ戦争の記憶ではありますが、日本では「終戦75周年」「広島、長崎の被ばくから75周年」などとして記憶されています。それに対して、中国では「中国人民による抗日戦争並び世界人民による反ファシズム戦争勝利75周年」の年として銘記されています。戦争の終結から75年となるこの夏は、新型コロナウイルスによるパンデミックがまだ世界で続いています。過去になかった未曾有の事態の下で迎えたこの夏、皆さんが両国の歴史や今について思っていることをぜひお聞かせください。

メッセージ募集のご案内

<コロナ禍の戦後75周年、私が今思っていること>

字数:ご自由に。

署名:本名・ハンドルネーム・ペンネームのいずれも可。

形態:文字原稿・音声ファイルでの投稿のいずれも可。

宛先:riyubu@cri.com.cn

タイトルに「75周年メッセージ」と明記してご送信お願いいたします。

盧溝橋の歴史を乗り越えアフターコロナに中日未来のかけ橋を築こう

北海道石狩市・上田知晴さん

戦後75周年。でも、私は55歳、今年ようやく56歳です。つまり、私は戦争が終わってから生まれました。私が小学生の頃、つまり45年前の10歳頃のことです。この頃流行っていた歌の中に「戦争を知らない子供たち」がありました。小学校の合唱合奏コンクールではクラス対抗でよく歌ったものです。

でも、歌詞の通りなのです。「戦争が終わって、僕らは生まれた。戦争を知らずに僕らは育った」のです。

そんな私が、戦争が終わったことについて思うこと、それを述べても良いものか。戦争の辛さ、苦しみと言っても、一切経験の無い自分が軽々しくそれを述べて、実際に辛く苦しまれた方々に対して失礼になりはしないだろうか。そんな思いが脳裏を走り、少し躊躇しました。でも、7月7日は盧溝橋事件の日です。盧溝橋についてどうしても述べたくて、キーボードを叩かせて頂くことと致しました。

今から32年前の23歳の時、大学の卒業旅行で、私は北京に友達と一緒にお邪魔しました。この時、自分自身には、実は、いくつかの北京での目的がありました。その一つは、盧溝橋に行くことでした。中日戦争は、中日が盧溝橋で衝突したことによって勃発したことは高校の世界史の授業で習い、知っていました。でも、同時に盧溝橋はとても美しい石造りの橋であることも伝え聞かされていました。私には、せっかく中国に行けるのだから、なぜ、日本は大切な隣人を傷付けなければならなかったのか、その発端となった盧溝橋とはどんな所で、どれほど美しい所なのかをちゃんと自分の目で見てみたいという強い気持ちがありました。

写真:新華社通信2019年7月撮影

なので、北京滞在3日目の朝だったと思います。一緒に行った友達を半ば強引に連れて、盧溝橋に行くことにしました。

朝、ホテルの前に止まっていたタクシーの運転手さんを捕まえて、筆談で盧溝橋に連れて行ってほしいと頼んだ時、タクシーの運転手さんはとても驚いた顔をされていました。その表情は「お前ら、本当にここに行くのか。ここがどういう所かわかっているのか。行ってどうするんだ」とでも、おっしゃっているかのように見えました。

でも、私は「お願い、どうかお願い」を中国語では知りませんでしたので、思いっきりカタカナ英語で「プリーズ、プリーズ」を連発していました。結局、運転手さんは私達を盧溝橋に連れて行ってくれました。それほど長い時間はタクシーには乗っていませんでしたが、盧溝橋に着いた時、橋のすぐ近くには抗日戦争記念館がありました。

タクシーの運転手さんはその横を通る時、「おいっ!着いたぞ」といったようなことを声と言葉にならない言葉でごにょごにょとおっしゃいました。私達は一旦タクシーを降りて、盧溝橋を見ました。

橋の真ん中には雲のような龍のような彫刻が施されていて、とっても立派な橋であったことを覚えています。又、その彫刻を見た時に、なぜ、日本は、日本人はここを歩いて、もしくは普通車で渡らなかったのだろう。なぜ、戦車と戦闘機で越えていってしまったのだろう。

資料写真:1937年7月8日、宛平城から盧溝橋へ向かう中国軍

資料写真:盧溝橋で戦う国民革命軍第29軍

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