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中国を生きる和僑の生き様に惹かれて~堀内弘司さんに聞く(上)

CRIPublished: 2019-12-17 23:31:00
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聞き手:王小燕

今日お話を伺うのは、「和僑」ーー近年、「華僑」をもじってそう呼ばれるようになった、海外で暮らす日本人たちを研究している堀内さんです。

堀内さんはまだ学生だった1984年に、中国を初めて訪れる機会に恵まれました。しかし、大学卒業後はアメリカ系のコンピューター企業に就職したことで、中国とは無関係な「日本より東にばかり目を向けていた」サラリーマン人生を20年以上過ごします。「コンピューター屋さん」として、アメリカ企業や日本企業でビジネスの経験を積みました。

その中で、アメリカ人の同僚たちが会社勤めをしながら大学院に通い、修士号や博士号を取っていた様子に刺激され、45歳で思い切って会社を辞め、大学院に入学しました。

そんなある日、新宿の紀伊国屋で真っ赤な表紙の本が目に入った堀内さん、そのタイトルにあった『和僑』という二文字にひどく驚かされました。「どんな人たちだろう」という好奇心で、この本を読み進めました。

「シュークリームが食べたいのに、上海で探し回っても見つからない。ならば、自分で修行してこの町でシュークリーム店を開けば良い……」

本の中で描かれた「和僑」たちの生き様にぐいぐいと惹かれていきます。時は21世紀に入って間もない頃でした。当時の日本国内では経済の低迷を背景に、非正規雇用の増加で若者たちが元気を失い始めていました。その一方で、日本を飛び出した若者たちといったら、ぎらぎらと目を輝かせて、「まだ無いのなら、作ってしまおう」という前向きな心構えで日々開拓、進取していたのです。

折しも、大学院に進学したことで研究テーマを考える必要があった堀内さんは、こうして、中国を生きる「和僑」たちを研究することに決めたのでした。

「この人たちの生き方をもっと深く知りたい」と、堀内さんにそう思わせたもう一つの理由は、自身の祖父にありました。堀内さんがまだ5歳だった頃に亡くなった祖父は、1883年に山梨の生まれ。小学校の時に算数が得意だったため、横浜で銀行を作る同郷人から引き抜かれて一緒に横浜へ向かいます。横浜で英語を習得したことで、15歳でアメリカ・シアトルに渡ります。その後、テキサスで石油長者を相手にした日本風調度品の店を開いたり、ロサンゼルスで花屋を経営したりした後、日本が国際連盟に脱退した1931年に帰国。そう、その生き様は100年以上前でありながら「和僑」そのものでした。

「ゴールドラッシュが終わりましたが、イギリスをアメリカが抜いていこうとするときに祖父が移住しました。当時のアメリカは無法地帯で、有色人種への差別もあり、祖父たちは色々な苦労をし、差別も受けたと思います。そんな祖父が一体アメリカで何をやっていたのか、気になってしょうがなかったです。しかし、2008年当時の私が祖父の軌跡を調べようとアメリカに行っても、おそらくその影姿を感じるのも無理なことだと思います。その代わり、中国が日本を追い抜こうとする中国を生きる和僑たちの人生を知ることが、祖父の気持ちを知ることにつながると思いました。おそらく苦労はありましたが、仕事を起こしている喜びも感じていたと思います。起業する人たちの喜びをとらえたくて、その人たちに会ってみたいと強く思いました」

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