日本と中国はとにかく対話を ~大平正芳氏の孫・渡辺満子さんと「二つの45周年」を振り返る~
「祖母が平和への願いを込めて作った着物。それを着られて、とてもうれしかったです」と満子さんは言います。
■日本と中国は大みそかと元旦ほど違う〜大平正芳の「贖罪意識」と「楕円の哲学」
満子さんの祖父・大平正芳氏は、中国各界で高く評価されています。
特に、1972年9月の両国の国交正常化交渉においては、時の外相だった大平氏が誠意ある姿勢で根気よく交渉に臨んだことが知られています。政治学者の劉江永氏は「中日共同声明が発出された背景には、大平外相の知恵が凝集されていた」と評価しています。
1979年9月、大平正芳首相は所信表明演説で、「アジア地域の安定は日本にとって極めて重要」との認識を踏まえ、「そのため、中国との平和友好関係の増進に引き続き努力し、中国の経済建設にできる限り協力する」との意思を明確に示しました。そして、同年12月の中国訪問で、「より豊かな中国の出現が、よりよき世界につながる」という期待を述べました。これらの発言は、多くの中国人の記憶に残っています。
祖父の対中外交について、満子さんは、原点には「贖罪意識」があり、背後には「楕円の哲学」という政治思想があったと分析しています。
「大平がまだ20代の大蔵官僚だった頃、日中戦争(中国側の呼称は抗日戦争)の最中に、中国の張家口に派遣され、1年半ほど単身赴任をしました。その時に垣間見た日本の軍部の横暴ぶりについて、クリスチャンだった大平には『大変申し訳なかった』という気持ちが残っていて、何かお返しをしたいという贖罪意識が芽生えたと思います」
満子さんはさらに、「大平は、まん丸の一つの円よりも、二つの中心がバランスを取り合う楕円の状態を良しとしていました。例えば、日本と中国がバランスを取り合って、アジアの発展に尽力するというような思想です」と付け加えました。
満子さんが持つ祖父の印象は「無類の読書好き」です。大平氏は書や漢詩に関する素養もあり、国交正常化交渉の時は漢詩を作ってコミュニケーションをしていたという記録も残っています。そんな大平氏は、「隣国同士だからといって、努力せずに理解し合えると考えるのは危うい」という指摘をしていたそうです。
満子さんは、大平氏が語ったという次のような言葉を教えてくれました。
「大陸国家である中国と海洋国家である日本は、隣同士でも大みそかと元旦ほど違うが、永遠に離れられない関係だ。だからこそ両国には、仲良くするには相当の努力が不断に求められる」
■祖父の教えに導かれて〜渡辺満子さんの努力とこれから
1972年9月、国交正常化交渉のために大平外相が訪中した時、満子さんは10歳でした。当時の日本国内では反対の声も大きく、「事実、命を狙うという脅迫状が届き、連日、右翼の街宣車が大平の自宅まで来て、スピーカーから大音量で罵声を浴びせていた」と記憶している満子さんは、窓の隙間から外の騒ぎを覗いた時の様子が忘れられないと言います。
1980年4月、大平氏が首相在任中に殉職した時、満子さんは17歳でした。
祖父が遺した、「国と国の間にはうまくいく時もあるが、そうでない時の方が多い。そんな中で、一番大切なのは、人と人の厚い信頼関係と文化交流だ」という言葉が、彼女の行動指針になっています。
満子さんは大学卒業後に日本テレビに入社し、『女たちの中国』と題したドキュメンタリーシリーズなどを制作しました。現在は、日中映画祭実行委員会や孫中山文化基金会などの非営利団体の活動や、日中学生会議の交流プログラムに熱心に携わっています。また、著書の『祖父・大平正芳』が2018年に、『平成皇后美智子』が2022年に、中国で翻訳・出版されています。
満子さんは『祖父・大平正芳』について、「政治家と、政治家を支える家族の"愛と哀しみ"を、孫娘である自身が"女性の視点"で描いた本」として、「特に中国の女性に読んでほしい」と紹介しました。また、過去25年にわたる皇室取材経験に基づいて書いたという『平成皇后美智子』については、「美智子皇后様ご本人も全部お目通しいただいており、資料としてはほかにない完璧なものだという自負を持っている。中国人読者の日本理解につながれば」と期待を寄せました。