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絵手紙で結ばれた中国と日本のまごころ

CRIPublished: 2021-02-23 21:56:00
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対面したことがないにもかかわらず、多くの仲間が呼応してくれたのは、「神宮寺おじさんの中日友好を思い続ける思いとその精神に心打たれたからだと思う」と話しました。

なお、これらの絵手紙は、旧正月春節期間中の中国から、郵便で送る場合の遅延を考え、まずは電子版にして送信し、原本は改めて郵便で届けることになっています。

【番外編】

<神宮寺敬さんとはどんな人?>

中国からの絵手紙に返事を送る神宮寺さん

山梨県甲府市。武田神社から要害山(ようがいさん)に向かって、徒歩10分ほど歩くと、富士山が一望できる下積翠寺町につきます。バス停「神宮寺」を降りれば、目の前が神宮寺敬さんの自宅になります。

1920年2月23日、養蚕農家の次男としてここに生まれた神宮寺敬さんは、日本では今は残りわずかとなる戦争体験者世代です。総力戦体制の下、通信会社の会社員だった敬さんも徴兵され兵隊となりました。後に通信兵として、中国や東南アジアでの侵略戦争の戦場に行き、敗戦は上海で迎えました。

その後、自ら組み立てたラジオで海外からの日本語放送を聞くようになり、日本が中国で行った戦争が侵略戦争だったと気づきました。新中国成立間もない頃の1950年代初めから、敬さんと奥様の綾子さんが日本語月刊誌「人民中国」を購読し、北京放送を聞きはじめました。1966年、「人民中国」社の招待で戦後にして初めて中国を訪問し、その時、北京の宿泊先である民族飯店のまごころのこもった接客に感動し、また、両国の平和と友好を心から願っている多くの中国人に接したことで、日中友好と平和増進をライフワークにしようと決意しました。

1970年代後半、中国が改革開放され、山梨大学に国費留学生が派遣されたばかりの頃、神宮寺さんと奥様は真っ先に自宅を改築して、中国人留学生に下宿先として自宅を提供しました。1986年、北京放送を訪ねた時、当時の中国では海外渡航が自由にできなかったため、多くの若手アナウンサーは、日本に行ったことがないまま、マイクに向かっていました。それを聞き、神宮寺さんは帰国後、ローカルのテレビ山梨(UTY)に北京からのアナウンサーを受け入れ、アナウンス訓練のチャンスを提供するよう働きかけました。それがきっかけで、「仕事はテレビ山梨、生活は我が家」という敬さん一家の好意で、北京放送の多くの若手アナウンサーが訪日研修を受けるチャンスに恵まれ、神宮寺家でお世話になりました。

神宮寺敬さんは1986年以降、毎年のように、秋の稲刈りが終わった後に家族を連れて、友人たちと「一期一会の約束を果たす」ために、北京を訪れています。

自ら撮影した神宮寺さんの写真でつくった誕生日カードも

ところで、101歳の誕生日を元気に迎えた神宮寺さんは、この日をどのように過ごしたのでしょうか。なんと、朝早くから囲碁のトーナメント戦に出かけていたそうです。中国からたくさん送られてきた絵手紙について、「力強い字で描かれていて、皆からの『おめでとう』に本当にありがとう。また皆と会いに中国に行きたくなりました」としっかりとした声で感想を述べました。そして、健康長寿の秘訣について尋ねると、「好きな事を言い、好きな物を食べる」ことでした。

101歳になった神宮寺さんの声、そして、中国の関係者の思いを伝える声は番組でお聞きいただけます。

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この番組をお聞きになってのご意見やご感想をぜひお聞かせください。メールアドレスはnihao2180@cri.com.cn、お手紙は【郵便番号100040中国北京市石景山路甲16号中国国際放送局日本語部】もしくは【〒152-8691東京都目黒郵便局私書箱78号中国国際放送局東京支局】までにお願いいたします。皆さんからのメールやお便りをお待ちしております。

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