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横浜から北京へ留学して学んだこと~中村高寛監督に聞く(上)

CRIPublished: 2019-07-23 17:46:00
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特別ゲスト:王衆一

聞き手:王小燕

(左)中村高寛監督(右)王衆一さん

今回は作品の上映交流会で北京を訪れたドキュメンタリー映画監督の中村高寛さんにお話を伺います。

去年の夏、中村監督はその前年に日本で公開された映画第二作「禅と骨」の上映交流会で北京を訪れました。

前作「ヨコハマメリー」では、「メリー」という女性にまつわる都市伝説にフォーカスすることで、生まれ故郷、横浜の戦後史に迫っていました。これに対して、「禅と骨」ではアメリカ人の父と日本人の母との間に横浜で生まれ育ったヘンリ・ミトワさん(1918〜2012)の生涯を追っていました。

(左)「ヨコハマメリー」ポスター(右)北京の上映交流会会場外に貼られた「禅と骨」のポスター

ヘンリ・ミトワは1940年に父親を探しに米国にわたり、太平洋戦争の勃発で米国の日本人収容所に入れられ、戦後、家族を連れて日本に再び帰国し、晩年は京都・天龍寺の禅僧として過ごしていました。しかし、そんなミトワは80歳を目前に、突然、童謡「赤い靴」の映画化という夢を持つようになります。家族にもしっかり理解してもらえなかった夢ですが、ミトワはその実現のために生涯をかけて奔走を始めました。この映画の夢にはミトワのどのような思いがこめられているのか。ミトワの波乱万丈の人生には、どのような日米交流の歴史が映し出されているのか。心の葛藤だけではなく、生々しいぶつかり合いの場面も含めて、中村監督はカメラで記録しました。

ところで、この日、映画交流会に出席した中村監督は流暢な中国語を使って挨拶をしました。中国で開かれた国際ドキュメンタリー映画祭などからも良くゲストとして招かれる中村監督ですが、実は北京電影学院で2年間留学したことがあります。

映画との出会いは十代のとき。「友達がいなくて、映画ばかり見ていた」という「寂しい、悲しい」思い出を笑いながら振り返りました。そして、映画を仕事にしたのは、「映画ばかり見て人生が過ごせたらどんなに良いかと思っていたが、社会人にならざるをえない時が来てしまった。その時、もう映画という選択肢しかなかった」と苦笑いしていました。

第五世代監督の代表作

しかし、少年時代「知らない人たちが映画館に集まって、同じ映画を見て同じところで笑ったりすると、不思議な一体感が味わえた」体験は、今も自分が映画を作る際に再現したいと思っているそうです。

ところで、日本の映画撮影所で助監督を経て、自分でも作品を作ってみたいという自我が芽生えたときに、若き中村さんは大きな悩みを抱えるようになりました。その悩みとは、「では、自分はいったい何を作ればよいか」ということでした。その時に、彼が行動に出たのは、24時間仕事に没頭していたそれまでの生活に別れを告げ、もう一度学生に戻ることでした。向かった先は、中国の第五世代監督を数多く育てた北京電影学院でした。少年時代、映画をエンタメとしてしか見ていなかった自分が中国映画祭で、第五世代監督の作品に触れ、「映画は、ここまで自分の思想を表現することができるものなのだ」と、強いインパクトを受けたためだと言います。

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