名作曲家・王洛賓の恋歌(後編)
中国の有名作曲家である王洛賓。中国西北地方の民謡を基にアレンジした「達坂城的姑娘(ダバンの娘)」など、多くの作品が今でも地域の代表的な民謡として広く歌われています。「西北民謡の父」と呼ばれる王洛賓は、亡くなってもう20年になりますが、そのメロディーはいつまでも中国人の心に刻まれ、忘れられない名曲となっています。今回の中国メロディーは、前回に続きまして、その王洛賓の音楽の世界をご紹介しましょう。
西北民謡との深いつながり
王洛賓は1913年、北京に生まれました。祖父は亡くなった人の絵を書く民間の絵師であり、いつも悲しい涙声の中で死者の肖像を描いているといったイメージが、王洛賓の子供のころの記憶として残っていました。そして祖父は、「悲しいことがわからないと本当の楽しさがわからない」と言っていました。この言葉は、まさしく王洛賓の運命をずばり言い当てたものとなりました
王洛賓は18歳の時に北京師範大学音楽学部に進学し、のちにフランスのパリ音楽大学への留学を希望しましたが、盧溝橋事件の勃発により断念しました。その後、愛国青年として中国共産党の軍に入隊し、青海省、甘粛省などの西北地方を転戦していた間、地元民族のラブソングなど多くの民謡を集めました。1939年、26歳となった王洛賓は、部隊に救援物資を輸送するウイグル族の運転手と出会います。そこで彼が歌った民族の民謡の美しいメロディーに魅了され、すぐにそれを書き止め、標準語で歌詞を付けました。ユーモアで生き生きとした歌詞は地元民謡の軽快なメロディーと相まって、独特な情緒が溢れたものになりました。これが「達坂城的姑娘(ダバンの娘)」で、今でも新疆ウイグル族を代表する民謡として広く歌われています。
王洛賓は、20代後半となった1940年代の初めごろに作曲家としての黄金期を迎え、「半個月亮爬上来(半月が昇ったよ)」「瑪依拉(マイラ)」、「康定情歌(こうてい情歌)」などの名曲を生み出しました。しかし、各地での民謡の収集にいそしむあまりに妻との仲が遠くなり、二人はついに1941年に離婚してしまいました。
刑務所でも「美」を見つけたミュ―ジシャン
しかもこの年、王洛賓は、共産党の容疑者として逮捕され、厳しい拷問にかけられました。しかし、獄中でも前向きな気持ちを抱え、刑務所でも「美」を見つけてそれをヒントにし、「(牢獄が好きだ)」などあわせて30の曲を作り、また囚人仲間に唄を歌ったり、踊ったりしました。こうした朗らかな気持ちが多くの人に伝わりました。
1945年、32歳で出所した王洛賓は、友人の紹介で知り合った17歳の看護師、黄玉蘭と結ばれました。黄玉蘭はとても飾らない誠実な女性で、結婚してからずっと夫と苦難を共にします。しとやかでおとなしい人柄に王洛賓も心がゆり動かされ、彼女の名前を「静か」に変えました。しかし1951年、王洛賓は38歳の時に政治問題で再び投獄し、悲しみのあまり妻はその1か月後、わずか23歳で亡くなりました。