名作曲家・王洛賓の恋歌(前編)
中国の有名作曲家・王洛賓。中国人のいるところでは必ず彼の作った曲が聞こえると言われています。20世紀最高と呼ばれるミュージシャンの一人である彼は、生涯で1000曲近くを作り、中でもロマンチックな情緒あふれる「在那遥遠的地方(草原情歌)」、躍動感あふれる踊りの「青春舞曲(青春舞曲)」、異国情緒のある「達坂城的姑娘(ダバンの娘)」などは中国人なら誰でも歌える名曲です。しかし、そんな偉大なミュージシャンは数奇な運命に翻弄され、3回も刑務所に入れられて、あわせて18年間獄中生活を送りました。また、四人の女性と恋に落ちましたが、最後は孤独な余生を過ごしました。今週の中国メロディーは、来週と二回に分けて、その王洛賓の恋物語と音楽の世界をご紹介しましょう。
ロマンチックな恋愛
王洛賓は1913年に北京で生まれ、幼いころから祖父や父親の影響で京劇の演奏や歌に興味を持ち、中学校はミッションスクールに通い、優れた音楽の才能で学校の聖歌隊の合唱をリードしました。18歳で北京師範大学音楽学部に進学し、西洋音楽の教育を受け入れ、世界的な作曲家になろうと決心しました。しかし、当時の中国は動乱の時期であり、東北部は日本軍に占領されました。愛国青年であった王洛賓は常に反日のチャリティー公演に参加しており、北京で行われたある公演で、地元の芸術専門学校西洋画学部に通っていた杜明遠と出会います。テノールを歌った王洛賓と、ダンスをした杜明遠が、絶妙な公演をしました。共通の夢や趣味を持った二人はその後、恋に落ち、王洛賓が24歳の時に結ばれました。
王洛賓の運命を変える「花児」
その年の末、新疆からソビエト経由でパリへ留学する予定だった王洛賓夫婦は、山西省で華北地方にあった中国共産党の軍隊・八路軍が日本軍と勇敢に戦ったという情報を耳にして、軍の西北師団に入隊し、反日戦争に身を投じたのです。部隊はある日、甘粛省と寧夏ホイ族自治区に隣接する六盤山の小さな宿に泊まりましたが、その宿のおかみさんは地元の有名な民謡歌手でした。地元の民謡「花児」をまるで清らかな泉のようにありのままに表現し、その歌声に王洛賓は夢中になりました。そして「最高のメロディーや最高の詩が我が中国にある以上、パリなどに行く必要はない」と考えました。この六盤山への遠征は、王洛賓の人生と運命を変えていったのです。
忘れられない初恋
王洛賓は結局、これがきっかけで中国西北地方の民謡に夢中になってしまい、パリ行きを断念してこの西北地方で民謡を収集しようと決心しました。しかし、彼は、新婚の妻をあまり顧みず、妻はいつも寂しさを感じていました。
八路軍に従軍した王洛賓はその後、甘粛省の蘭州から、生活条件がさらに厳しい青海省の西寧へ、妻とともに移動します。地元の山や谷をくまなく歩き、たくさんの地元民族の民謡の素材を集めました。「僕は歌さえあれば、充分満足できる。僕にとって音楽は生活のすべてだ」と言いました。その一方、妻は閉ざされた貧しい環境にどうしても溶け込めず、地元の中学校で美術の教師を勤めましたが、延安革命大学で元気に過ごそうと思っていた彼女にとって、この生活は希望とほど遠いものでした。王洛賓が30歳となった1941年、音楽のため全身全霊を打ち込んでいた彼に妻が別れを切り出し、ロマンチックな恋はピリオドを打ったのです。