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「敕勒歌」の世界へようこそ

CRIPublished: 2019-05-17 15:22:00
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5月、北京の町じゅう至るところを車で走りますと、音楽とともに窓の外に流れる色とりどりの花の風景が楽しめます。そんな時は、渋滞してもいらいらしたり、落ち着かなくなったりすることもありません。ある日、蒙古族の歌手・テンゲルが歌う「敕勒歌(敕勒の歌)」がカーラジオから流れてきました。豪放で男っぽい歌声が独特な魅力を感じさせてくれました。今週の中国メロディーは、この「敕勒の歌」という古い詩の魅力を味わい、そしてこの詩に関わる敕勒族と敕勒川の物語をお話ししましょう。

古代戦場で響く「敕勒の歌」

「敕勒の歌」は中国の南北朝時代における北方の代表的な民謡の一つで、草原地帯の雄大な景色をありのままに歌ったものです。素朴な歌詞と豪快なメロディーは、まるで万里の長城の北にある草原を描いたスケッチのようです。

この詩はもともと、唐の時代に李延年が編纂した北朝時代の歴史書「北史」に収められたものです。紀元546年、北斉王朝の初代皇帝・高歓は十万人の兵を率いて、西魏の軍事上の要衝・玉壁を攻めましたが、一敗地にまみれ、7万人の兵を失いました。そして、高歓自身も矢に打たれて死んだ、という噂が軍全体に流れてしまいます。このデマを抑えるために、高歓は病いを押して宴会を開き、兵隊をもてなしました。この席で、敕勒族の将軍・斛律金が、この敕勒の歌を歌い、威風堂々たる歌声でみんなの士気が大いに盛り上がったということです。

英雄を輩出した民族~敕勒族~

「敕勒の歌」は、もともと遊牧民族である鮮卑の言葉でしたが、今は標準語の歌詞だけが残っています。北方の草原をうたった古今の絶唱と称えられています。この歌を生み出した民族の敕勒族は、もとはバイカル湖周辺の遊牧民族で、後漢の時代に入って一部はヨーロッパに移り住み、また一部は中国北部の砂漠である漠北草原に移りました。その漠北に入った部族は、スポークがたくさんある大きな車輪のついた馬車を使ったことから、高い車と書いて「高車(こうしゃ)」と呼ばれるようになりました。のちの歴史書では、チョクロク族はほとんど「高車」と記されています。

昔から多くの遊牧民族が活躍していた蒙古草原の中で、鮮卑族と柔然族が特に大きな勢力を誇り、草原の覇者ともいえる存在でした。そして、敕勒族が常に狙われる存在になっていたのです。しかし、敕勒族はこれらの民族の蹂躙に屈することなく、紀元487年に「高車の国」を造り上げ、一時期は西部の強敵を一掃しましたが、結局は50年余り後の541年に柔然族に滅ぼされてしまいました。

敕勒族、そして造り上げた国は、もう歴史の泡と消えましたが、この民族には2人の英雄がいて、まるで双子星のように中国の歴史の銀河に輝いています。1人は、当時の名将・倍候利で、柔然族との戦いではほぼ無敵でした。もう1人は、先ほども出ました将軍の斛律金で、倍候利のひ孫にあたり、ご紹介した詩の「敕勒の歌」を初めて歌った人物とされています。斛律金は勇敢な策士であり、戦いの際に地面に伏して耳を当てると敵の馬の数やそこまでの距離がわかりました。敕勒族の勝利の神と称えられています。

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