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【日本語放送80周年~その時その人】陳真さん

CRIPublished: 2021-12-06 18:58:00
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長い放送人生の原点はどこだったのか。日本語放送開局60周年の2001年に、陳真さんは北京の自宅で後輩記者のインタビューを受けていました。過去半世紀の歩みを振り返り、一番心に残ったことは「人民の国が成立した日のことで、天安門広場で新中国の誕生を見届けた時でした」と次のように振り返りました。

陳真さん(2001年の音声):

「人民の国が生まれたのだ。これからはもう世界のどこに行っても誰にも馬鹿にされないで、堂々と胸を張って生きていける。これから、中国はどんどんよくなって素晴らしい国になる。この素晴らしい国にしていくのが私達の使命であり、新しい中国の変わっていく姿を日本の皆さんにお伝えしていくのが、私たちの仕事だと思いました。この52年間に様々なことがありました。正直言って、つらい思いをしたこともあります。そのたびに、私は人民の中国が誕生した日の思い出を、その日の感動を思い起こしました。そうしますと、体の底から力と勇気が湧いてくるような気がするんです」

「人民の国」の誕生に涙ぐんだ陳真さんには幼少期、日本で味わった屈辱的な体験がありました。2000年、陳真さんはNHKラジオ深夜便に出演した際、父方の祖父が日本軍のひどい拷問を受けて無残に死んだこと、小学校三年の時、軍隊出身の受け持ちの先生から「チャンコロ」と呼ばれ、それに抗議したところ、いきなり力強く頬を打たれて、その後不登校になったことなど、めったに口にしないことを語りました。しかし、その一方で、父には日本人の親友がたくさんいたこと、詩人の谷川俊太郎さんとは幼馴染で、子どもの時から優しく接してもらい、今も連絡をとりあっていること、戦争は国籍が関係なく、一般の民衆に等しく被害をもたらしていることなどを語りかけ、両国の人々は憎みあうのでなく、仲よく付き合うべきだと呼びかけました。

陳真さんの中国語講座を聞いて、中国ファンになったリスナーは数多くいます。中にはタクシーを運転しながら中国語講座を聞いていた名古屋のドライバーは、陳真さんの訪日を知ると、わざわざホテルまで送迎しに行ったなどといった暖かいエピソードが、陳真さんの自伝『柳絮降る北京より』に書き記されています。

2004年1月、新年特番「紅白歌比べ知恵比べ」発表会に出席し同僚を記念写真に写る陳真さん

陳真さんはまた、どんなに困難な中でも他人のことを先に考えるという暖かい人間性と不思議な魅力があり、日本に多くの友人がいました。

陳真さんの著書の一部

「中国語講座」をはじめ、北京放送と共に歩んできた人生について、陳真さんは2001年の取材で次のように振り返っています。

「言葉というのは人間の心と心を結ぶ絆だと思います。中国語講座の番組は言葉を教えるだけではなく、言葉の勉強を通して、中国のことを日本の方に知ってもらい、そして、中国と日本の人達の心の絆を強めていくために作った番組だと思うんです。ほかの番組にくらべると、たいへん地味な存在ですが、私の仕事を通して、中国の人たちと日本の人たちの魂の触れ合いに少しでも役に立つことができれば、それが私の生きがいだと思います。日本向けの放送という仕事に、自分の力を尽くすことができたことを本当に心から嬉しく思っています」

2004年秋、陳真さんは胃がんの転移により急に容態が悪化しました。それでも、NHKテレビ中国語講座のテキストの連載締切を守り、郵送してから入院しました。

精神科医、ノンフィクション作家の野田正彰さんは、陳真さんが入院していた間に、『陳真~戦争と平和の旅路』を書き上げ、原稿を病床にまで届けました。陳真さんの波乱に満ちた人生をリアルに記録した作品です。興味のある方は、ぜひ一読をお勧めします。

参考書目:

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