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【日本語放送80周年~その時その人】陳真さん

CRIPublished: 2021-12-06 18:58:00
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北京放送中国語講座の歴史は陳文彬・陳真親子と深い縁があります。文彬さんは台湾出身の言語学者で、法政大学で学び、卒業後は母校の教師になりました。次女の蕙貞さんは1933年東京生まれ。音楽が好きで、13歳で長編小説を書きあげたほどの多情多感な文学少女でした。1949年8月末、一足先に中国大陸に入った父親の後を追いかけ、蕙貞さんは母、姉と一緒に北平(1949年9月27日から再び「北京」へ名を変える)に入り、その3日後に北京放送に入局しました。それ以降、蕙貞さんは「陳真」へと名前を変え、生涯を「陳真」の名で通しました。

1962年、日本との民間交流が盛んになってきたのを受け、北京放送の番組に初めて中国語講座が設けられました。局長・廖承志さん直々の手配で、当時、文字改革を担当していた陳文彬が講師を務めていました。番組は反響が良かったものの、「文革」によってわずか4年で打ち切られてしまいました。一方、1970年頃になると、日本の訪中団から「中国語を習って中国人と仲良くなりたい日本人が大勢いる。番組でぜひ中国語講座を復活してほしい」というリクエストが相次ぎました。

1972年9月29日、北京の人民大会堂で中国と日本は関係正常化に向けた共同声明に署名し、両国関係の新たな一ページが開かれました。その年の暮れ、時の周恩来総理は日本からの代表団と面談する中で、「中国語講座を再開してほしい」という要望を知り、北京放送に再開の計画を早急に立てるよう指示しました。

1970年代、中央人民放送局の中国アナウンサーによる模範朗読の収録に立ち会う陳真さん

指示を受けた放送局は直ちに準備に取り掛かり、陳文彬さんが講師を務めていた4年間、ずっと口述筆記を担当していた曽アナウンサーを中心に、数人のスタッフが準備を進め、再開の目途もたちました。

ところが、曾アナは番組再開を一か月後にひかえる中、病気で倒れ、入院してしまいました。ピンチヒッターとして白羽の矢が立ったのが陳真さんでした。陳真さんはその2年前から、休日になると、父親の親友で、中国語の発音表記体系「ピンイン」の創設に大きく貢献した言語学者・周有光先生に、言語学や修辞学の手ほどきを受けていたことが上司の耳に入っていたからです。

中国語講座が再開した後、たちまち日本からたくさんの手紙が届き、陳真さんの鈴を転がすような美声、上品な日本語、豊富多彩な音源を取り入れた番組構成が多くの聴取者の心を虜にしました。

1970年代、日本から届いたお便りを同僚と一緒に整理する陳真さん

陳真さんは中国で内戦がまだ終わらない中、命の危険を冒しながら日本から2年かけて祖国に帰国。16歳の入局から2005年1月に71歳でなくなるまで、半世紀あまりにわたって日本語放送と人生をともにしてきました。

若き頃の陳真さん

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