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2021年新年特別企画<新春俳句&漢俳大会(下)>

CRIPublished: 2021-01-31 17:08:00
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ご案内:王小燕、斉鵬

収録後の記念撮影

俳句&漢俳を介しての中日の文化交流をめぐり、引き続き中日友好協会理事で、中国漢俳学会会長の劉徳有先生、日本語月刊誌「人民中国」の王衆一編集長にお話を伺います。

今回は主として、お二人の目に写った異文化交流のあるべき姿、そして、古典詩歌の影響を強く受けて誕生した「漢俳」の中国での広がり、また漢俳が新時代の中日文化交流にもたらす新たな可能性をめぐりお伝えしてまいります。

◆王衆一編集長:漢俳はミニサイズの漢詩

――2020年を振り返ると、新型コロナが全人類に大きな影響を及ぼす事態となりました。そうした中で、2月初めに『人民中国』のWechat公式アカウントが2弾にわたって「俳山句海」と題しての俳句・漢俳企画を行いました。一致団結してコロナと戦うことに寄せた思いをめぐり、たくさんの方たちの句が掲載されました。それらの句から大きな力を感じ取りました。王編集長は、どのようなきっかけでこの企画を始めようと思ったのですか。

王衆一去年の春、猛威を振る舞っていたコロナ感染症と戦う中国の皆さんに、日本の方々から漢詩の句をつけた箱に入れたマスクを届けたニュース写真を見て、心温まる思いを感じました。そこからヒントを受けて、「それなら、人民中国のウィーチャット公式アカウントで、俳句と漢俳の形で、日本の皆さんの善意に応えて、手を携えて頑張るではないか」とこの企画をしたわけです。

これを刘德有先生に話したら、先生は大賛成で、自ら俳句を投稿してくれました。私はそれを漢俳風に訳して一緒に打ち出したら、たくさんの投稿が寄せられてきました。

――劉先生と王編集長はこのシリーズ企画では、名コンビとして知られています。劉先生の書いた俳句に、王さんが中国語で575に訳す、この作業がここ数年ずっと続いているようです。たとえば、「奮い立て頑張れ武漢破魔矢あり」という劉先生の俳句に対して、王編集長は「奋起拚一战,破魔神矢除魔剑,加油大武汉!」と漢字17文字で訳されています。それぞれ味わいがあり、印象に残っています。

王衆一劉先生は漢俳の大先輩で、生みの親の一人でもあります。私から見れば、漢俳は文化交流の中で中日両国が学び合って、中国人なりの創意工夫の上で生まれたものです。

中国語で再現した俳句よりも、俳句の要素を借りて、中国の古典詩歌の風土の中で生まれた一種のミニサイズの漢詩で、刘先生の前で冗談を言っては失礼ですが、私はむしろ“微詞”と呼びたいです。

◆劉徳有先生:中国と日本の文化、相違もあれば相通じるものもある

劉徳有氏

――前回の話題の続きですが、劉先生は俳句と漢俳の最たる違いは「季語」の扱い方に出ており、そのきめ細やかな感受性は、必ずしも中国の読者にきちんと理解されないかもしれないと話しました。しかし、それと同時に、俳句や漢俳は相手の言語に翻訳され、紹介しあうことは、中日の文化交流にとって重要な意義があるとも指摘されています。文化交流の意義は、相手のことを知り、自身のことを知ることにあり、また、そのことが互いに触発を受けるということでもあるようですね。

劉徳有そうですね。これと関連して、もう2つ例をあげたいと思います。

まずは蕪村の名句、「易水(えきすい)にねぶか流るる寒さかな」です。これは漢詩文の教養を背景とした空想上の作であると思われます。出典の『史記』によれば、秦の国の圧迫を受けた燕の国の太子丹は、始皇帝を刺すため壮士荊軻を派遣しますが、荊軻は易水のほとりより旅立つにあたり、「風蕭蕭兮易水寒,壮士一去兮不復還(風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒し、壮士(そうし)一たび去りてふたたび還(かえ)らず)」と吟じたと伝えられます。

易水は中国の河北省を流れる川で、漢文の教養がある日本人なら、蕪村のこの句を読んで頭に浮かぶ光景は、「風蕭蕭として易水寒し」の詩句によって名高い易水には、今日も冷たい風が吹きすさんでいる。ふと見ると誰か上流で流したらしい葱が、川面に浮きつ沈みつ押し流されている。その葱の青白いつややかさに、ひとしおきびしい寒気を覚えることである――ざっとこんなものではないかと思います。

しかし、中国の読者がこれを読んで日本人のような感じ方をするかどうか疑問です。なぜなら、中国人は日本人のように、“ねぶか”――葱から寒々とした感じを受けないからです。現に詩人の林林先生がこの句について論じたとき、「蕪村は、青い葉に白い根の葱の漂流でもって、易水の寒さを引き立てているが、なかなか理解に苦しむところである」と言っています。

もちろん、中国の北方も冬になりますと、朝市などに新しく取れたネギが山のように積まれ、冬の一景をなしていますが、前のほうでも触れた通り、ネギの白い根から受ける季節感は日本人のように、サムザムとしたものでないため、上流から流れるネギと易水の寒さとの間にどのような内的な関係があるのか、理解が難しいのではないでしょうか。これは、やはり文化の違いからくる難しさだと思います。

――葱が川に浮かぶ風景を描くことで寒さを引き立てるというのは、とても新鮮な表現方法のように受け止めています。

劉徳有もう一つの例はこちらの句です。

「引っ越しの荷物落ち着き柿若葉(西川みどり)」

「柿若葉」は初夏の季語ですが、日本人ならこの季語から、ほっとさせるような安らぎとやわらかな感じをただちにとらえ、「引っ越しの荷物が落ち着く」ことと「柿若葉」との間の関係がすぐわかるそうですが、中国人にとってこの句の作者がなぜ「柿若葉」を「引っ越しの荷物落ち着く」に結びつけたのか理解に苦しむところです。また、ある日本人から聞いた話しですが、季語「柿若葉」から連想するのは、人事異動の季節に多くの人が地方へ転勤するため、引越しが多くなるそうだ。生活環境や文化的背景などがちがう中国人にとって、季語のもつ含みを日本人同様に理解することは無理だと思います。

私の考えをまとめますと、中国と日本の文化には相違はありますが、それと同時に、相通じるものがあることも事実です。そして、これがまた両国人民の相互理解の増進を大いに可能にしています。文化交流がいかに重要であるかを示唆しているのではないでしょうか。

◆「カンパイ」への誘い

王衆一編集長と語り合う劉徳有氏

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