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岡田実・拓殖大学教授が語る『日中未来遺産』~森田欣一の巻

CRIPublished: 2019-09-03 19:57:00
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中国で愛されるスイカを遺した日本人・森田欣一の記憶

聞き手:王小燕

この9月、『日中未来遺産―中国「改革開放」の中の“草の根”日中開発協力の「記憶」―』と題した本が日本僑報社から出版されました。

著者は元国際協力事業団(JICA)中国事務所副所長で、現在は拓殖大学教授の岡田実さんです。

未来へと伝えていかなければならない日中の共通の「記憶」とは何か?この問題意識からスタートして、岡田さんは本の中で中国の改革開放初期、「草の根」で農村の発展を支えた日本人4人の取り組みを取り上げています。この4人とは、中国唯一の「日本人公墓」がある黒龍江省方正県で寒冷地稲作技術を伝えた藤原長作、中国全土でコメの増産に貢献した原正市、スイカの品種改良に心血を注ぎ、北京の人気銘柄に名前の一文字が採用された森田欣一、“一村一品”運動が中国でも広く受容された平松守彦です。

岡田さんは「改革開放四十年の中の『日中開発協力の記憶』は、日中関係においては過去の『戦争の記憶』と決して断絶しているわけではない。むしろ両者は有機的に絡み合い、実質的に日中戦後和解プロセスの一部を形作ってきている」という認識に基づいて、「4人の軌跡をたどることを通じ、日中の未来を考えるきっかけとなれば」と執筆の思いをこう語っています。

今回のインタビューは、この4人の中から、今でも中国各地で愛されているスイカ「京欣一号」の育種指導に携わった森田欣一にフォーカスしてお話を伺います。

森田氏を紹介した中国の関連資料

森田さんは1916年に千葉で生まれ、1939年に東京農業大学農学部育種科を卒業後、坂田種苗、みかど育種農場株式会社で育種業務に従事しました。農業の専門家でありながら、侵略戦争で招集されて中国の東北部に渡航。その後、転戦して日本の敗戦をフィリピンで迎え、1945年末に日本に戻りました。

岡田さんによりますと、森田さんは帰国後「一年間くらい連隊本部で戦死・生存者の名簿の整理をやっていた。そのため、職場復帰が遅れ、戦後のどさくさで坂田種苗にはもどれず、自分で会社を立ち上げた。家では中国の話はほとんどしなかった。話したがらなかったという」。

森田のスイカ育種の原点は千葉産の“旭都”の育種にあります。これに加えて、エリザベスメロンの育種にも貢献した森田は、株式会社みかど育種農場社長、会長、最高顧問などを歴任しますが、中国の改革・開放が本格的に始まった1980年頃から、中国との技術協力の機会が生まれます。

みかど育種農場には韓国、中国などからの研修生を次々に受け入れたのに続いて、1982年に、66歳の森田はFAO(国連食糧農業機関)の招きで中国を訪問。この年に設立された北京市農業科学院蔬菜研究センターなどでスイカの技術指導を行ったのが、その後のスイカ育種の原点でした。

惜しくも2008年に他界した森田さんは、専門書以外には、個人の思いを綴った資料や文字などを残していません。岡田教授は中国側で書きとめられた記録、そして千葉在住のご子息・弘氏のインタビューで入手した資料などに基づいて、「スイカに刻まれた日中協力の『記憶』」として第三章「森田欣一」を書き下ろしました。

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