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母の日 唐代の人が母親へ書いた手紙をCMGが公開

CRIPublished: 2024-05-13 13:03:59
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△唐代の趙義深という人が母親へ書いた手紙

中央広播電視総台(チャイナ・メディア・グループ/CMG)の番組は「母の日」に当たる12日、1000年余り前の唐の時代の人が遥か遠く離れた母親へ書いた手紙を紹介しました。

それは唐代の趙義深という人が母親へ書いた手紙で、現代語に訳しますと、「お母さん、お兄さんが“雲騎尉”(官職)に昇進したことを聞いて、私も居子(妻の名前)もとてもうれしかったです。お母さんは今後人に頼んで私にいろいろと贈り物などをしないで、自分のために取っておいてくださいね。私と居子は巣を離れた小鳥のように、異郷で自分の巣を築き上げていますが、心の底では常に故郷のことを思っています」と、母親への思いを伝えながら郷愁を募らせた手紙でした。居子とは趙義深の妻の名前です。

「巣寄他土、暁夜思郷(巣は彼の土に寄せ、昼夜を問わずに故郷を思う)」は、趙義深の言葉でした。

646年、趙義深は洛陽で心の内から出る言葉を書きました。1000年後、この手紙は新疆トルファンのアスターナ古墳から出土しました。アスターナ古墳は高昌故城の住民の共同墓地で、趙義深の母親はここに眠っています。洛陽とトルファンは3000キロ以上も離れており、唐の時代には地の果てのような感じでした。なぜ趙義深が親元を遠く離れるようになったのか、その理由にも思いがはせられます。

また、高昌城は古代シルクロードの要衝であり、唐太宗の時代、高昌王の麴文泰は中原地区と西域の往来を遮断し、シルクロードの貿易を独占しました。640年、唐太宗李世民は西へ派兵して高昌を取り返し、麴氏一族は中原へ移住するように命じられました。趙義深はこの事件を受けて洛陽へ移住するようになった可能性が高いとみられています。

さらに、手紙の文面から見ると、洛陽から高昌までの文通は通常3カ月かかると推測されています。中国古代の郵便システムは「駅伝」と呼ばれ、役所が文書や物資などを運ぶために設置しました。しかし、輸送力に限界があり、一般庶民は国の駅伝を利用することはできませんでした。そのため、一般庶民の文通は知人に頼んで渡すより仕方がなかったということです。

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