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長野のスキー関係者と振り返る北京冬季五輪と中日スキー交流

CRIPublished: 2022-03-01 19:18:00
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メダル総数15個。中国代表は閉幕したばかりの北京冬季オリンピックでは過去最高の成績を手にしました。とりわけ、その中の9個が雪上競技で占められ、これまで中国代表の弱みとされてきた雪上競技には目を見張る進歩がみられました。

中国の冬季オリンピック出場の歴史は今年で42年となります。1980年2月の(米国)レークプラッシド大会に、その前年に国際オリンピック委員会で合法的議席が回復されたばかりの中国から28人の選手が派遣され、18種目に出場しましたが、メダル獲得には至りませんでした。

北京冬季オリンピックでは、日本人コーチを始め、諸外国のコーチの活躍が話題になっています。実は42年前の大会にも同じく日本人コーチの尽力がありました。

左からクロスカントリー河野利之コーチ、アルペン・河野博明コーチ

クロスカントリー中国代表・林広浩選手

1979年12月、長野県野沢温泉村。28歳のアルペンスキーコーチの河野博明さんのところに突然、命令が下されました。相手は長野県スキー連盟の片桐匡会長。

「レークプラッシド大会に出場予定の中国代表が長野で強化訓練を受けることになり、アルペンスキーの男女選手の指導を頼む」という内容でした。

預かったのは吉林省敦化出身の朴東錫(男子)と王桂珍(女子)。二人はクロスカントリーの男女ペアとともに、地元の民宿に泊まり、一か月にわたる特訓を受けることになっていました。

1979年12月末、野沢温泉到着後の写真、最初の宿舎である民宿福田屋の前で

緑色のジャージは片桐匡会長

「体に合うスキー用具を提供することから始め、実力は日本の高校生選手のレベルでした」と河野さん。中国代表の同行者に通訳はいたものの、スキーができないため、高い山に登るトレーニングには参加できず、意思疎通は「ストックで雪の上に大きく字を書いて筆談する」方式でした。

怪我をさせてはならない。と同時に、中国代表として恥ずかしくない成績も取らせたい。「二つの相反する気持ちが心の中に大きくのしかかっていた」。

幸い、現地の選手と一緒に行ったトレーニングで良い効果を得られました。送り出した時には「かなりのレベルアップができた」と確信できたと河野さんは振り返ります。

1979年2月24日、朴東錫選手、王桂珍選手から佐藤コーチへの手紙

大会終了後に、二人から届いた手紙によりますと、朴選手は選手83人中、大回転が50位、回転が34位。王選手は52人中、大回転36位、回転18位。「オリンピック初出場の成績とすれば、素晴らしい成績だと思う」と河野さんは当時の二人の成績を評価しました。

自然環境との闘いもあり、アルペンスキーは途中であきらめる選手が多いことで知られていますが、初出場した二人は、試合を無事終え、しかも、回転で残した成績は、北京冬季五輪開催まで中国代表の最高順位となっていました。

河野さんはその後、1981年3月に北海道で開かれたアルペンスキーワールドカップでも中国代表2名のコーチを務め、中国との絆を保ち続けてきました。これまでにスキー交流のため、6回中国を訪問し、数々の国際大会の開催地として知られる吉林北大壺スキー場の開発・設計にも関わってきました。

1979年に指導した選手たちやその子ども世代とは、今もコンタクトを取り続け、北京冬季オリンピックが開幕した夜は、感極まった河野さんからお祝いの電話をしたというエピソードも。

北京冬季オリンピック開催中、河野さんが「一番感動した」試合は、クロスカントリースキー女子4×5kmリレーの種目だったと振り返ります。18チームから72人が出場し、中国代表は10位。それまでの中国最高順位だった1984年のサラエボ冬季大会12位を2つも繰り上げました。一方、日本代表は11位でした。

北京五輪・クロスカントリースキー女子4×5kmリレーの試合風景〔新華社写真)

「複雑な気持ち」で中継を見ていた河野さんは、「42年前の中国のクロスカントリー選手のことを思うと、非常に嬉しい反面、芳しくない成績で終わった日本代表をみて、非常に悔しい気持ちも入り混じっている」と感想を聞かせてくれました。

一方、中国のウインタースポーツの進歩は日本にとってメリットになることもあると言います。中でも、中国国内にある充実したトレーニング施設は、日本の選手作りにも生かされています。河野さんによりますと、アルペンスキーもクロスカントリーも2015~16年頃から、11月になると、中国でトレーニングを受ける日本選手が増えるということです。

アジア初の全天候型クロスカントリー練習用の室内スキー場・吉林〔新華社写真)

「これから日本は中国の施設を使って選手作りをする必要が出てくると思います。お互いにないものを利用しながら選手を育てていきます。このような相互協力、相互理解が今後も続くことを願っています」

野沢温泉村のゲレンデに立つ河野博明さん

競技スポーツ分野だけではなく、長野県はこれまで大衆スポーツとしてのスキー分野でも中国と友好交流を続けてきました。

長野県教育委員会スポーツ課の赤羽康隆指導主事によりますと、長野県内では、1979年の中国代表のコーチング引き受けをきっかけに、長野県日中友好協会、長野県スキー連盟が主力となり、翌1980年に日中スキー交流実施委員会が設立。1981年から相互交流を開始。中国からは選手やコーチが日本へ研修しに、日本からは中国のスキー事情の視察訪問が始まり、現在も継続しています。

インタビューに答える長野県教育委員会スポーツ課の赤羽康隆指導主事

1983年に、長野県ではスキー板やストック、靴などの用具を中国に送る取り組みが始まり、長野市内の公園の一角に、スキー用具の収集場所を設けて、市民に協力を呼びかけてきました。長野県日中友好協会がまとめた資料によりますと、集まったスキー用具をクリーニングし、コンテナ車に積み込む作業は「毎年の風物詩」になり、2012年までにその数は13万セットになりました。これらの用具は、大衆スポーツとしてスキーが流行りだした中国で、当時、用具の不足を補うために活用されていました。

一方、北京の冬季オリンピックの招致成功を受け、習近平国家主席は「ウインタースポーツ人口を3億人に拡大」と目標を掲げました。それを背景に、中国全国のスキー場は800ヶ所以上に上り、スキー人口の増加で、長野を始め、日本各地のスキー場にも中国からのスキー客の姿が溢れています。

長野県と中国とのスキー交流も、いまでは国際大会の運営経験の交流などへとシフトしつつあります。アルペンスキーコーチの河野さんはオリンピックが終わった後、スキー学校の運営や冬季オリンピック施設の利活用における長野の経験を喜んで中国に分かち合いたいと、今後も交流の継続と拡大に希望を抱いています。

河野さんは今後のウインタースポーツの発展について、国を跨いだ連携の大事さを強く訴えています。

「今、アジアの冬季スポーツは欧州に追いつけ、追い越せという時代に来ていると思います。中国と日本はもちろん、アジアの選手が一丸となって、スキー大国に挑戦をするというのが、ウインタースポーツの世界的課題だと思っています。一つの国ではできないことなので、アジア各国の間でそのための絆をしっかりと結んでほしい」

2022年3月1日の野沢温泉村のゲレンデ

北京冬季五輪開催中、蘇翊鳴選手のメダル獲得を受け、中国外交部の華春瑩報道官は公式ツイッターで日本語で投稿し、佐藤コーチに感謝の意を表すと同時に次のメッセージを残しています。

「中国の雪上スポーツは佐藤康弘コーチのような方々に支えられて成長しました。描かれたシュプールの数だけ、心打つエピソードも生まれました。今後も2人に続く人々が現れ、両国に温もりと希望をもたらしてくれますように」

華春瑩報道官のツイッターのスクリーンショット

長野県と中国との42年にわたるスキー交流の歴史も紛れもなく華報道官が言う「心打つエピソード」の一つでしょう。中国のウインタースポーツは日本を含め、諸外国との交流の中で進歩し、また、中国からの貢献も自らを高める道のりだったと言えるでしょう。

この記事をお読みになってのご意見やご感想、または北京冬季オリンピックについての思いやメッセージをぜひお寄せください。メールアドレスはnihao2180@cri.com.cn、お手紙は【郵便番号100040中国北京市石景山路甲16号中国国際放送局日本語部】までにお願いいたします。皆さんからのメールやお便りをお待ちしております。

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