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【日本語放送80周年~リスナーと共に歩む】(上)懸け橋としての電波

CRIPublished: 2021-12-07 17:33:00
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日本語放送から発足した中国共産党が率いる中国人民対外放送は2021年12月3日で80周年となりました。80年の歩みは、日本各地にいるリスナーとともに歩んできた旅路でもあります。日本各地から届いた80周年に向けたメッセージを抜粋してお伝えすると同時に、日本語放送(北京放送)の視聴者のみなさんと月日を超えたつながりにフォーカスします。

山梨県・神宮寺敬さん~中日友好がライフワークの101歳

中国が戦火に見舞われた1941年12月3日。侵略者の日本軍との戦いが「持久戦」に入る中、革命の地・延安で、戦う相手に対して侵略をやめ、戦闘を終わりにしようと呼びかけたのが日本語放送の原点でした。これまでの80年、北京放送は終始、聴取者の「平和と友好」への想いの受け皿となるよう歩み続けてきました。

富士山を玄関先から眺める甲府市下積翠寺町。ここにお住まいの神宮寺敬さんはこの2月に101歳になりました。日本語放送では「神宮寺おじさん」として親しまれています。今の北京放送にとって、リスナー歴70年の神宮寺さんが最も古参の聴取者です。もともと通信が専攻の神宮寺さんは戦時中、徴兵で中国の東北や南洋に行かされ、1945年8月15日に通信兵として上海で敗戦を迎えました。

北京放送を聞く神宮寺敬・綾子さん夫妻

戦後、神宮寺さんは自分で組み立てたラジオで短波放送を受信し、最初はモスクワ放送、のちに北京放送を聴くようになりました。様々なことに対する勉強が深まる中、自身もかかわっていた戦争は侵略戦争だったと気づき、中国のことをもっと知りたくなり、妻や娘たちを巻き込んで、ライフワークとしての中日平和・友好事業に取り組んできました。戦後、神宮寺さんは家族や地元の友好訪問団を率いて、約60回にわたって中国を訪問。中でも1985年からコロナ前まで続いてきた、日本語放送アナウンサーのテレビ山梨での研修の実現に大きな貢献をしてきました。

2021年9月中央広播電視総台

廖麗記者

この9月、チャイナ・メディア・グループ(CMG)の廖麗記者一行が甲府を訪れ、神宮寺さんを自宅で取材しました。北京放送と共に歩んできた約70年の歩みについて、神宮寺さんは驚異的な記憶力で振り返り、その答えは実に頭脳明晰でした。また、北京放送とかくも長きにわたって交流を続けることができたのは、「放送を通じて中国への理解を深め、日中はいつまでも平和と友好を続けてほしいからだ」と話し、カメラに向かって次のようなメッセージを繰り返しました。

神宮寺敬さんが日本語放送開始80周年に寄せた手書きのメッセージ

「日中が平和な時は両国とも幸せで、争った時は両国とも不幸です。いつまでも仲良しの関係を続けていってもらいたい。私は自分の体験上、心からそう思っていますし、子供たちにも伝えていきたいと思っています。中国の人と日本の人、そして世界中の人がいつまでも仲よく暮らしてほしい」

1987年6月12日、神宮寺さんの自宅を訪れた北京放送訪中団との記念撮影

1986年以降、毎秋の北京訪問は神宮寺家の定例行事として、コロナ前の2019年秋まで続いた。

写真は1989年10月、訪中した神宮寺夫妻と北京放送局員の記念撮影

2014年10月14日、放送局を訪れた神宮寺さんとの記念撮影

2018年3月31日、神宮寺さんの自宅を訪れた研修生OGと北京放送古参のスタッフたち

北京からの電波に思いを乗せて、中国と長きにわたって関わりを持ち続ける聴取者は、神宮寺敬さんのほかにもたくさんいます。中国と日本を結ぶ架け橋としての放送――これが多くのリスナーに共通した期待だとも言えます。

岐阜県・岩田博さん~電波が渡す友好の懸け橋

岩田博さん

岐阜県美濃加茂市にお住まいの岩田博さん(87歳)が放送を聞き始めたのは1956年春のことでした。当時、国鉄の組合で仕事をしていた彼は、新中国の動向に興味がありました。岩田さんは1978年秋に訪問団の一員として初めて中国を訪問し、帰国後に、「お世話になった御礼をどこに言えばよいのか」と迷ったあげく、放送局に初めてお便りを出しました。すぐにその手紙の内容が放送で紹介され、北京から返信も届いたことに驚き、以来、放送局と深い絆で結ばれてきました。岩田さんは夫妻そろって、友人を連れて何度も局を訪問し、また、北京放送アナウンサーが訪日時にも岩田さんの自宅を訪れ、親戚のような付き合いを続けてきました。

「北京放送から届いた最初のお手紙から、これまで郵便でやり取りしてきたすべての資料は全部とってありますよ」

岩田家が保管している北京放送関連の資料の数々

北京からの返信と共に同封された切り紙やべリカードなどを、岩田さん夫妻はきれいに整理して、家宝のように保管しています。友人や知人たちが訪れると、それを出して見せたりして、中国のよもやま話に花を咲かせています。1973年に、日本各地の聴取者たちが自発的に「北京放送を聞く会」を結成し、定期的に会報を発行するようになりました。当初はただ読んでいただけでしたが、ある日「資料としての価値があるのでは」と気づき、その日から、2000年の刊行終了までのすべての紙面を冊子にまとめて手元に保管していました。放送開始70周年の2011年、岩田さんは段ボール箱に詰めた会報集を放送局の資料室に寄贈し、放送史の研究に貴重な資料を加えました。

「北京放送を聞く会ニュース」創刊号(上)と最終号(下)の表紙

岩田家が保管している北京放送から届いた切り紙の一部

日本語放送開始80周年に対し、岩田さんからは「北京放送が今日まで日中両国の人民の友好の懸け橋として、たゆまぬ努力をしてきたことに心から敬意を表す。これからも友好の懸け橋として明るく楽しい友好的な放送を続けてほしい」と暖かい励ましのメッセージが届いています。

つづく

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この企画をお聞きになり、お読みになってのご意見やご感想、または80周年に寄せた思いやメッセージをぜひお寄せください。メールアドレスはnihao2180@cri.com.cn、お手紙は【郵便番号100040中国北京市石景山路甲16号中国国際放送局日本語部】までにお願いいたします。皆さんからのメールやお便りをお待ちしております。

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