5000年前の中国「良渚」文化で新発見 水利システムはさらに複雑だった
第2回良渚フォーラムが11月25日から浙江省杭州市で開催されています。良渚とは、紀元前3500年ごろから紀元前2200年ごろまで続いた長江文明の一つで、1936年の浙江省の余杭県での発掘調査により存在が明らかになった良渚文化のことです。
第2回良渚フォーラムの一環として、26日には「文明の光」と名づけられた中国内外の考古学者が対話するサブフォーラムが開かれました。同フォーラムで、良渚古城および水利システムプロジェクト考古リーダーを務める浙江省文物考古研究所科学技術考古室の王寧遠主任は「良渚古城周囲の水利システムの一部である『塘山長堤』は近年になり、考えられていたより複雑な構造だったことが判明した」と説明しました。
良渚古城周囲の水利システムは今から約5000年前からの歴史があり、良渚古城と統一的に設計された、中国で最も古い大型水利システムの一つです。考古学者は2015年、良渚古城周囲の水利システムが「高いダム」と「低いダム」の2段階に分かれており、塘山は低いダムシステムの一部であることを発見しました。塘山はそれまで、「山の前につくられた堤防」とされていました。
王主任によると、考古学者は2019年から塘山北側の大遮山脈で谷の開口部に築かれた16ヶ所の「高いダム」を発見し、さらに大遮山脈と塘山の間には多くの土手があったことも判明しました。最終的に、塘山の長堤と山脈の間に高、中、低の3段階のダムによるシステムが形成されていることが発見されたことで、良渚古城の水利システムについての認識はそれまでの「二段構造」から「三段構造」に変更されました。
王主任は、「良渚古城の周囲ではこれまでに350ヶ所以上の遺跡が発見さた。遺跡群全体の集落の構造には、良渚時代の早期から中期、末期に至るまでに大きな変化が生じている。このことも、先民の水利事業に密接に関連している」と述べました。
王主任によると、良渚古城の水利システムには、水路を通行のために利用し、水系で市街の機能を区分けし、重要な建築物を都市の中心部に配置し、川を挟んで街を築くなどの建設思想があります。宋代